2008年1月20日日曜日

コリント二5章16-21節「新しく創造された者」

第93号
  年頭のテレビや新聞では環境問題が多く取り上げられていました。課題は、地球の温暖化を防ぐために、どのようにして二酸化炭素の排出量を抑えたらよいのかということです。中国は二〇〇七年には、アメリカを抜いて世界最大の二酸化炭素排出国となるようです。中国とインドが二〇三〇年までには増加する排出量の五十六%を占めるといわれています。両国は「地球温暖化は先進国が招いている問題であって、われわれが二酸化炭素排出量の規制を受けることも、これによって発展が制約されることもない」という立場です。中国の一人当たりの排出量は先進国の約三分の一です。インドに至っては十一分の一の量に過ぎません。インドでは一日一ドル以下で暮らす貧困層は三億人、電気のない生活をしている人は六億人といわれます。中国の貧困層は一億三千万人だそうです。先進国は、自分たちと同じような生活水準を目指しているこれらの発展途上国の経済成長を抑えることはできません。
 温暖化や大気汚染といった環境破壊のため、わたしたち人間が地球に生存できなくなる日が遠からず来るといわれています。しかも少しずつ来るというのではなく、突然、その限界に達し、後戻りできなくなるといわれています。

 聖書もまた、この世の終わりの日が来ることを告げます。それは環境破壊によるものではなく、主イエスの再臨によってです。神は「その日」を定めておられます。わたしたちにとって「神との和解」がなされているかどうかが問われる日です。「神との和解」がなされている人にとっては救いの日となり、そうでない人にとっては裁きの日となるからです。
 わたしたち人間は生まれつき神に敵対して歩んでいます。その思考、判断、行動、いずれも自己中心で自分を神としているからです。それ故、自分以外の神を信じることは出来ません。自分以外の神に従うことは、自己を否定することに他なりません。真実の神に従うなら、今までの生活や贅沢な暮らしと決別し、最も大切と思っているものですら捧げることが求められるかも知れないからです。
 主イエスに従った十二弟子たちもまた、自分中心の罪から逃れることは出来ませんでした。主イエスと共に「神の国」を支配することを夢見ていたからです。そのため自分たちの思いがかなわぬと知るや、主イエスを見捨ててしまいました。わたしたちもまた同じように、主イエスに自分を捧げるのではなく、主イエスを自分に仕えさせようとします。
 このようなわたしたちが本当の意味で救われたのは、聖霊によって神である主イエスの力を認め、その前にへりくだるということが起こったからに他なりません。神との和解は、自らを神としていたその罪を認め、主イエスに全てを委ねて従う決心をした時にもたらされます。

 今日、江戸時代の生活が見直されています。経済成長率がゼロの時代でした。生活必需品のほとんどは生涯、いや二代、三代に渡って使っていました。また農作物などの生産も自然のサイクルを最大限利用していました。庶民の間にも寺小屋教育は広まり、多くの人が読み書きそろばんが出来るようになりました。平和な時が続き文化も発展しました。
 もちろん問題も多くあったことでしょう。しかし、環境問題に直面するわたしたちの参考になる生き方がそこにはありました。しかし、そうであっても、その時代に戻ることは不可能です。そうするには、わたしたちは今享受してる便利な生活や、自分の持っているものを捨てることが求められるからです。
 「神との和解」は、わたしたちに神の霊と共に新しい命をもたらしました。それはわたしたちがこの世ではなく、永遠の命に生きるようにされるということでもあります。その結果、この世で持っている最も大切なものですら人に分け与えることが出来るようになるのです。マザーテレサはインドの貧しい人のために自分の生涯を捧げました。内村鑑三は戦争に突き進むかつての日本にあって命をかけて非戦論を唱えました。
 自己中心であるわたしたちには、神のため、また人のために自分を犠牲にする力が生まれつき備わっているというのではありません。「神との和解」によって私たちの内に与えられた聖霊によって変えられ、「新しく創造された者」となるのです。
 「新しく創造された者」には、「神との和解」の務めをなす使命が与えられます。人を恐れず福音を語るなら、必ず実を結ぶのです。環境問題などによって、人類の生存の危機が叫ばれているこの時代は、神の国の福音を一人でも多くの人に語ることの出来る良い機会をわたしたちに提供しているのではないでしょうか。

2007年12月16日日曜日

ルカ1章26-38節「あなたと共におられる」

第92号

 神は天使ガマリエルをガリラヤのナザレという町に住むマリアに遣わし、言われました。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる」。「マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ」のです。何か良いことをしていたのであれば、「ああ、そのことか」とこの言葉を素直に喜ぶことができたでしょう。あるいは、何かの目標に向かって一生懸命だったなら、そのことを認めてくれた、と思えたことでしょう。しかし、マリアには何故このような祝福を受けるのか分かりませんでした。ナザレという田舎町で育ったマリア、彼女には神からこのような言葉を受けるに値するものは何一つなかったのです(ルカ一:四八)。
 ガブリエルはマリアに「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子といわれる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることはない」と言われました。それは「マリアよ、喜びなさい。あなたが身ごもる子は聖書で約束されたメシアなのです」ということでした。
 ガブリエルの言葉は、もしマリアが既にヨセフと結婚していて、ヨセフとの間に出来る子がそうなのだというのであれば、素晴らしいものでした。しかし、これはマリアがヨセフと結婚する前に子が生まれるというものだったのです。今と違って、未婚の女性が身重になることは赦されない時代でした。本人の問題だけでなく、家族の恥であり、家長の責任でした。事実、マリアが身ごもったと聞いたヨセフは「縁をひそかに切ろうと決心した」のです(マタイ一:一九)。これはヨセフがマリアの子を自分の子と認めたうえで離縁しようとしたということでした。ヨセフがマリアのことを公にしたなら彼女は死罪を免れないでしょう。義人ヨセフはマリアがそのような目に遭うのを望まなかったのです。
 マリアはガブリエルに答えました。「どうして、そのようなことがありえましょう。わたしは男の人を知りませんのに」。信仰の原則は「神から与えられるために、自分の持っているものを先ず捨てる」ということです。ガブリエルの言葉が成就するためには、マリアがヨセフとの結婚の夢を捨てなければなりませんでした。それどころか自分の命すら捨てる覚悟が求められました。わたしたちはどうでしょうか。クリスチャンであっても「天使ガブリエルよ、とんでもないことです。わたしにはヨセフといういいなずけがいます。わたしではなく他の人にしてください」と言うのではないでしょうか。多くの人の場合、信仰は自分の利益が守られる範囲内、という前提に立っています。しかし、本当の信仰者の生き方は主イエスのためにどれだけ損をするかによって決まります。神のために何かを捨てるなら、神がそれを補ってくださって余りあるのです。マリアがヨセフとの結婚だけを考えていたら、主イエスにある本当の幸せを見つけることが出来たでしょうか。
 ガブリエルは「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。あなたの親類のエリサベトも、歳をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六ヶ月になっている。神には出来ないことは何一つない」と言われました。ヨセフはマリアと縁を切る決心をしました。しかし、ガブリエルがヨセフに夢で現れ「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである」と言われました(マタイ一:二〇、二一)。
 身ごもったマリアが「わたしを信じて」と言ってもヨセフはその言葉を受け入れられなかったでしょう。マリアに「恵まれた方」と言われたお方は、彼女が毎日幸福に楽しく生きられると約束した訳ではありません。マリアは、神であり、自分の息子でもある主イエスの十字架を見なければなりませんでした(ルカ二:三五)。しかし、主イエスは死から復活されました。そして天に上げられ、彼女の心の中に霊として入って来られました。「主イエスはマリアと共におられる」のです。この約束は地上にいる間だけでなく、死んでからも永遠に続くのです。
 マリアはガブリエルに「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように」と言いました。この言葉により、マリアが素晴らしい女性であるのが分かります。神がナザレのマリアにご自身の子を託されたという訳が分かります。
 主イエスはわたしたちにも「恵まれた人よ」と言われます。主イエスが共にいてくださる」からです。クリスマスにこの世に御子を送られた天の父に感謝します。

2007年11月18日日曜日

コロサイ書1章9-23節「御子は最初の者」

第91号

 肉体の死によってわたしたちの「いのち」は終わるのでしょうか。それとも復活はあるのでしょうか。古今東西多くの人が抱いて来た疑問です。科学では証明できませんし、自分は死から甦った、復活はあると言われても信じられないことです。
 主イエスの時代、ファリサイ派の人たちや律法学者たち、また一般の多くの人たちは復活を信じていました。しかし、サドカイ派の人たちは信じていませんでした。天使や霊の存在も信ぜず、魂は肉体と共に滅びると信じ、未来の応報も否定していました。彼らはモーセ五書のみ信じていたからです。
 サドカイ派の人たちはダビデ時代の祭司サドクの子孫と言われ、祭司長を代々務め、祭司の職を独占して来ました。最高法院の議員を多く占め、神殿を拠点に政治的実権を握り、数は少なくても社会の指導的役割を担っていました。使徒言行録には、パウロが主イエスは復活したと宣べ伝えたため、最高法院で弁明を求められた出来事が書かれています(二二:三〇~二三:一一)。パウロは議員がファリサイ派とサドカイ派の人々だったので、彼らの教義上の違いである「復活はある」、「ない」の問題に議論を転換させてしまいました。

 主イエスは愛するマルタとマリアの弟ラザロが死んだとき、マルタに「あなたの兄弟は復活する」と言われましたが、それに対するマルタの答えは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」でした。それが当時の人々の復活についての一般的な考えでした。ですから「その石を取りのけなさい」と主イエスが言われると、マルタは「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」と答えたのです(ヨハネ一一:一~四四)。主イエスはラザロを復活させました。それは御自身が「いのち」であり、死者を甦らせるお方だからです。マルタだけでなく弟子たちもまた主イエスがそのようなメシアであるとは考えていませんでした。
 カイザリア・フィリピに行った後、主イエスは弟子たちに繰返し自分はエルサレムに行き、苦難を受け十字架につけられ、三日目に復活すると教えました。弟子たちは、主イエスはエルサレムで神の国を樹立すると信じ、その暁には自分たちも主イエスと共に神の国を支配すると考えていたので、主イエスの言葉の意味を理解することはできずにいました。彼らは主イエスが大祭司たちに捕らえられると、見捨てて逃げてしまいました。主イエスは一人、十字架につけられ、死んで墓に葬られました。三日後、主イエスは前もって言われていたとおり復活されましたが、弟子たちは誰も信じませんでした。彼らが信じたのは復活した主イエスと出会ったからです。そして雲に包まれ天に昇るのを見ました。ペンテコステのとき約束の聖霊を受けて彼らははじめて伝道に立ち上がり、自らを「主の復活の証人」と呼んだのです(ヨハネ二〇:二八)。

わたしたちの信仰は「主は復活された」という事実にかかっています。主イエスは「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と言われました(マタイ一六:二四)。その行き着く先が十字架の死で終わるなら誰も主イエスに従うことはできません。それは呪いの死に他ならないからです。しかし、主イエスは復活されました。それによって、主イエスはご自分の罪のない身体によってわたしたちの罪を確かに贖われたこと、また、わたしたちも復活することを示されました。十字架は命への道となりました。主イエスは「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。人はたとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか」と言われるのです(二五、二六)。
 主イエスは十字架に渡される前夜、弟子たちの足を洗われ、それが神の国であると教えられました。弟子たちの理解する神の国は、ローマの頸木からイスラエルを解放することでした。主自らが人々の上に君臨すると思っていたのでした。そのため、主イエスを理解することができませんでした。
 そのような彼らに、主イエスは十字架の上から、「父よ彼らをお許しください、彼らは何をしているのか分からないのです」と言われました。主イエスは神であるにもかかわらず最も弱い者となりました。そして謙虚な者、愛の人としての生涯を全うされました。それ故、天の父は御子を復活させられたのです。「御子は最初の者」となり、わたしたちの初穂となられました。
 復活された主イエスは、今、生きておられ、わたしたちと交わりを持つことがおできになるのです。主イエスを信じる「神の国」の民はペンテコステ以降、教会としてこの世に実現しました。教会は新しい天と新しい地のこの世での先取りです。わたしたちの国籍は天にあるのです。

2007年9月16日日曜日

フィリピ書2章12-18節「自分の救い」

第89号
 
 パウロはフィリピの人たちに「わたしの愛する人たち、…従順でいて、恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい」と勧めます。このことは「救われていないあなた方が救われるように」ということでも、「救われているあなた方が、その救いから漏れることのないように」ということでもありません。「あなたがたの救いは確かなこと」だからです。
 わたしたちは、救われるためには自分の努力や決心が大切と考えがちです。教会に行き、聖書を読み、祈ることで、また、自分は正直で、素直で、謙遜だからとか、何らかの「取り柄」があったからと考えるのです。
 確かに、わたしたちは喉が渇けば水を飲むこともできますし、人生がいやになれば窓から飛び降りることだってできます。しかし、救いはそのようなことではありません。
 わたしたちは罪という「泥沼」の中に生きているのです。右足を上げようとすれば左足が沈み、左足を挙げようとすれば右足が沈みます。その中で立ったり座ったり、手、足を動かしたりしているのです。それは自由ではありません。泥沼から出ることができないからです。わたしたちは神によってのみ泥沼から救われ、しかも岸に上がってはじめて自由になったことを知るのです。罪からの救いは人間の意志や努力ではできません。主イエスに出会って、初めて、自分が救われたのは神の選びと恵みであったことに気がつきます。救いは、神がその全ての主権を握っているのです。

 モーセに率いられて出エジプトを出たイスラエルの民は人種や民族の異なる雑多な人たちでした。彼らは紅海を渡って荒野に出て行くことにより、イスラエル、すなわち神の民、律法の民、契約の民となりました。荒野で彼らはすぐに喉の渇きを覚えました。そして、飢えを覚えました。そこには何の楽しみもありませんでした。家族の団欒すらなかったのです。神は彼らを水と、マナで養いましたが、民は神とモーセに絶えず不平を言い、つぶやきました。そのため、最初の世代はカレブとヨシュアを除いて全て荒野で滅ぼされました。荒野で生まれて育った新しい世代が、ヨルダン川を渡って乳と蜜の流れる約束の地に入ることが許されました。
 出エジプト記に書かれていることは、キリスト者の生活に重なります。わたしたちはこの世から出てきて洗礼を受け、教会の民となりました。キリスト者の歩みを始めたわたしたちが最初に経験するのは「霊的な渇き」です。この「心の空白感」を肉欲、仕事、地位、名誉、財産などで癒そうとしてもできません。それができるのは主イエスだけです。主イエスは「わたしが与える水を飲むものは決して渇かない。…その人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」と言われました(ヨハネ四:一四)。
 この世で自分がキリスト者であることを告白するなら、仕事に支障をきたしたり、生活していく上で困難なことが起こるかもしれません。わたしたちは時が良くても悪くても主イエスを証しなければなりません。その結果として受ける損失をあらかじめ覚悟しておかなければなりません。主イエスは「人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる」と言われました(ヨハネ六:五三、五四)。主イエスはわたしたちを、天からの食べ物、マナで養われるのです。
 キリストに従うことにより自分の好きな生き方ができなくなるかもしれません。たとえそうであっても、それに代わる霊的な喜びが与えられます。棄てるものより得るものの方がはるかに大きいのです。
 わたしたちは初めから主イエスに従順に生きることはできません。主イエスに反抗する古い自分に死んで、新しい自分に変わらなければなりません。野生の馬は乗り手を落とそうと暴れますが、調教されることによって従順な馬に生まれ変わります。主イエスに従うことにより、神の国の民にふさわしくされるのです。

  「自分の救いを達成するように努めなさい」とは、「従順さを追い求めなさい」ということです。「従順」とは自分の持っているものを全て棄てて、主イエスに従うことです。主イエスは神であるにも関わらず持っている栄光と権威を棄てて人となられました。神が人と結ばれ、元に戻ることはできません。そのようにしてまで人を救われようとされたのです。この主イエスと一緒に生きるとき、それに伴う苦難はあっても喜びがあります。
 「救いの達成」は、他の人の救いと密接な関連があります。主イエスに従順に生きることによって、多くの人を救いに導くことができるようになるからです。わたしたちの救いは決して個人的な出来事ではありません。

2007年7月15日日曜日

フィリピ書2章12-18節

第87号
 パウロはフィリピの人たちに「わたしの愛する人たち、…従順でいて、恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい」と勧めます。このことは「救われていないあなた方が救われるように」ということでも、「救われているあなた方が、その救いから漏れることのないように」ということでもありません。「あなたがたの救いは確かなこと」だからです。
 わたしたちは、救われるためには自分の努力や決心が大切と考えがちです。教会に行き、聖書を読み、祈ることで、また、自分は正直で、素直で、謙遜だからとか、何らかの「取り柄」があったからと考えるのです。
 確かに、わたしたちは喉が渇けば水を飲むこともできますし、人生がいやになれば窓から飛び降りることだってできます。しかし、救いはそのようなことではありません。
 わたしたちは罪という「泥沼」の中に生きているのです。右足を上げようとすれば左足が沈み、左足を挙げようとすれば右足が沈みます。その中で立ったり座ったり、手、足を動かしたりしているのです。それは自由ではありません。泥沼から出ることができないからです。わたしたちは神によってのみ泥沼から救われ、しかも岸に上がってはじめて自由になったことを知るのです。罪からの救いは人間の意志や努力ではできません。主イエスに出会って、初めて、自分が救われたのは神の選びと恵みであったことに気がつきます。救いは、神がその全ての主権を握っているのです。

 モーセに率いられて出エジプトを出たイスラエルの民は人種や民族の異なる雑多な人たちでした。彼らは紅海を渡って荒野に出て行くことにより、イスラエル、すなわち神の民、律法の民、契約の民となりました。荒野で彼らはすぐに喉の渇きを覚えました。そして、飢えを覚えました。そこには何の楽しみもありませんでした。家族の団欒すらなかったのです。神は彼らを水と、マナで養いましたが、民は神とモーセに絶えず不平を言い、つぶやきました。そのため、最初の世代はカレブとヨシュアを除いて全て荒野で滅ぼされました。荒野で生まれて育った新しい世代が、ヨルダン川を渡って乳と蜜の流れる約束の地に入ることが許されました。
 出エジプト記に書かれていることは、キリスト者の生活に重なります。わたしたちはこの世から出てきて洗礼を受け、教会の民となりました。キリスト者の歩みを始めたわたしたちが最初に経験するのは「霊的な渇き」です。この「心の空白感」を肉欲、仕事、地位、名誉、財産などで癒そうとしてもできません。それができるのは主イエスだけです。主イエスは「わたしが与える水を飲むものは決して渇かない。…その人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」と言われました(ヨハネ四:一四)。
 この世で自分がキリスト者であることを告白するなら、仕事に支障をきたしたり、生活していく上で困難なことが起こるかもしれません。わたしたちは時が良くても悪くても主イエスを証しなければなりません。その結果として受ける損失をあらかじめ覚悟しておかなければなりません。主イエスは「人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる」と言われました(ヨハネ六:五三、五四)。主イエスはわたしたちを、天からの食べ物、マナで養われるのです。
 キリストに従うことにより自分の好きな生き方ができなくなるかもしれません。たとえそうであっても、それに代わる霊的な喜びが与えられます。棄てるものより得るものの方がはるかに大きいのです。
 わたしたちは初めから主イエスに従順に生きることはできません。主イエスに反抗する古い自分に死んで、新しい自分に変わらなければなりません。野生の馬は乗り手を落とそうと暴れますが、調教されることによって従順な馬に生まれ変わります。主イエスに従うことにより、神の国の民にふさわしくされるのです。

  「自分の救いを達成するように努めなさい」とは、「従順さを追い求めなさい」ということです。「従順」とは自分の持っているものを全て棄てて、主イエスに従うことです。主イエスは神であるにも関わらず持っている栄光と権威を棄てて人となられました。神が人と結ばれ、元に戻ることはできません。そのようにしてまで人を救われようとされたのです。この主イエスと一緒に生きるとき、それに伴う苦難はあっても喜びがあります。
 「救いの達成」は、他の人の救いと密接な関連があります。主イエスに従順に生きることによって、多くの人を救いに導くことができるようになるからです。わたしたちの救いは決して個人的な出来事ではありません。

2007年6月17日日曜日

エフェソ書2章11-22節「一人の新しい人」

第86号

 ユダヤ人は選民意識の強い民です。それは、彼らの先祖であるアブラハムに神が現れ、「カナンの地」と「子孫」と「すべての民の祝福の源」になる約束が与えられたからです。アブラハムはその約束を信じ割礼を受けましたが、ユダヤ人もまたその約束を信じ、厳格に割礼を守ってきました。
 ヤコブの時代、七〇人でエジプトに下ったイスラエルの家族は、四三〇年後に二〇〇~三〇〇万の民となりました。約束どおり「子孫」が増えたのです。民はモーセに率いられて荒野から「カナンの地」へと導き入れられました。
 時が満ちて主イエスが生まれましたが、ユダヤ人たちは主イエスを救い主とは認めませんでした。主イエスもまた、イスラエルをローマ帝国のくびきから開放し、神の国をこの地上に築いてほしいという弟子たちや民衆の期待に応えられませんでした。また、ファリサイ派の人たちや律法学者たちの教えるようには律法を守られませんでした。主イエスはご自身を神の子とされましたが、ユダヤ人にとってそれは神を冒涜することでした。彼らは主イエスを十字架につけましたが、三日目に復活されました。そして、ご自身を弟子たちにお示しになり、エルサレムに戻って約束の聖霊を受けるように言われました。
 弟子たちに聖霊が降ったのが、ペンテコステの出来事です。物音に驚いて集まって来た人たちにペトロは大胆に説教しました。人々は大いに心を打たれ「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」と尋ねると、ペトロは「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます」と勧めました(使徒三章参照)。
 主イエスを神と信じる者が増えるにつれ、ユダヤ人の迫害は激しくなりました。ステファノが石で打ち殺されると、使徒たちの他は皆エルサレムの外に散っていきました。彼らの内の何人かは異邦人にも福音を宣べ伝えました。異邦人が福音を受け入れたのを知ると、使徒たちはペトロとヨハネを遣わしました。彼らが手を置くと異邦人もまた聖霊を授かったのです。

 異邦人が主イエスの霊を受けたことはユダヤ人にとって信じられないことでした。異邦人は「キリストとかかわりなく、イスラエルの民に属さず、約束を含む契約と関係なく、この世の中で希望を持たず、神に関係なく生きて」いたからです(一二節)。しかし、主イエスは規則と戒律ずくめの律法を廃棄され、ユダヤ人も異邦人も共に造り変えられる道を開かれ、一つの霊に結ばれて御父に近づくことができるようにされました。
 主イエスの十字架は神と人、ユダヤ人と異邦人、そして人と人とを隔てていたすべての壁を壊しました。かつて、大祭司しか入ることの出来なかった至聖所に、主イエスを信じる者は誰でも入ることが出来るようになりました。至聖所は神の御臨在の場所であって、わたしたちの心の最も奥深い大切な場所となりました。そこに神の霊が宿られるのです。
 エルサレムの神殿にはユダヤ人の他は「異邦人の庭」までしか入ることは許されていませんでした。そこから先は壁で隔てられていました。しかし、その神殿もまた西暦七〇年のユダヤ戦争のときローマ軍によって壊されました。ユダヤ人と異邦人を隔てる壁はなくなったのです。

  聖霊によって主イエスを頭とする一つの民が新しく創られました。それこそ新しいイスラエルの民の誕生であり、教会の始まりでした。このことは預言者たちによって前もって語られていたことでした(エレミヤ書三一:三一以下等)。
 この神の御計画にそって、パウロは異邦人に遣わされる使徒として選ばれました。彼はダマスコ途上で主イエスに出会うまで、キリスト者を迫害していました。パウロにとって、ユダヤ人も異邦人も共に救われるという、この御計画に預かる喜びがどれほど大きかったかは、彼の書いた書簡を見ればよく分かります。パウロはこの使命を果たすために命をかけました。
 「教会」というアブラハムの「子孫」は今や星の数ほど増えました。この子孫には主イエスによって「新しい天と地」が約束されています。これこそ新しい「カナンの地」です(フィリピ三:二〇参照)。ユダヤ人たちはいまだに地上のカナンを約束の地と信じているので、パレスチナの人たちとの争いが続いています。この世の土地に固執しないキリスト者だけが、この地上に「平和」をもたらすことができるのです。
 「すべての民の祝福の源」になることはユダヤ人が今までの歴史で達成することが出来なかったものでした。「一人の新しい人」の群れである「教会」は、主イエスが宿っているが故にこの約束をも成就するのです。

2007年5月20日日曜日

エフェソ書1章1~4節「聖霊による証印」

第85号

 
 エフェソの信徒への手紙はパウロの獄中書簡の一つです。執筆した場所はローマ、時期は西暦六〇年から六二年と思われます。内容はパウロがそれまで教えてきたことの要約です。
 エフェソは当時、アジアにおける商業、政治の中心でした。港は東と西を結ぶ中継地として栄え、ローマ人やギリシャ人、その他、様々な人種や人々が住んでいました。二万五千人収容できる野外劇場があり、人々は戦車の競争、人と動物との戦いなどを楽しんでいました。しかし、何といってもエフェソといえばアルテミス神殿で知られています。天から下ってきた町の守護神を祭るその神殿は、古代世界の七不思議の一つでした。莫大な金銀が奉納され、その豊かな財源は人々への潤沢な貸付資金となり、巨大銀行となっていました。神殿娼婦も数百人いて、まさに異教的な不道徳で淫らな世界が繰り広げられていました。そのような中に主イエスの福音が伝えられていったのです。

 主イエスの福音は十字架と復活にあります。わたしたちにとって十字架の出来事は信じられても、復活を信じることは極めて困難です。死んだ人が甦ることなど到底信じられないからです。このことは主イエスの弟子たちにとっても同じでした。主イエスが復活された日の早朝、親しい婦人たちが墓から駆け戻って来て「主は復活されました」と告げても、それを信じた弟子たちは一人もいませんでした。彼らは傷心のまま郷里に帰り、以前の仕事に戻っていきました。そのような彼らが信じたのは、復活の主に会い、手と足の釘跡を示され、脇腹の槍の傷を見せられたからでした。それだけでなく主イエスは彼らと一緒に食事をし、聖書を教えられ、生前の言葉を思い起こさせ、神の国について教えられたのです。彼らがエルサレムに戻って来たのは、復活の主イエスの言葉によりました。
 弟子たちは復活の主イエスに出会い、喜びに満たされましたが、尚、ユダヤ人を恐れていました。一部屋に集まり、鍵をかけ、祈りながら主イエスが約束された聖霊を待っていました。
 弟子たちに聖霊が与えられたのはペンテコステの時でした。天に昇られた主イエスは父の御元から約束の聖霊を弟子たちに注がれましたが、それはご自身が霊となり、弟子たちに宿られたということでもあります(一コリ一五:四五)。その時から弟子たちは人々の前に出て、ユダヤ人を恐れることなく、大胆に主イエスを神の子と証し、福音を述べ伝えました。

 主イエスはわたしたちの心に宿られます。しかし、クリスチャンであっても多くの人たちはこの事実を知りません。同じことは当時の人たちにも言えました。説教者アポロは主イエスのことについて熱心に語り、正確に教えていました。しかし、彼はヨハネの洗礼しか知りませんでした。彼がエフェソにも来て大胆に教え始めたとき、会堂で聞いていたプリスキラとアキラは彼の説教には何かが足りないのに気が付きました。そこで彼らはアポロを自分たちの家に招き、この道についてなお正確に教えたのです。(使徒一八:二四~二六)。
 パウロもまたエフェソの信徒たちに御言葉を宣べ伝えたとき、彼らの信仰に何かが欠けているのに気が付き「信仰に入ったとき聖霊を受けましたか」と訊ねています。それに対する彼らの答えは「いいえ、聖霊があるかどうか、聞いたこともありません」というものでした(使徒一九:一~七)。彼らもまたヨハネの洗礼しか知りませんでした。
 聖霊を受けなくても神を信じることはできます。主イエスを十字架につけたファリサイ派の人々や律法学者たちも神を信じていました。わたしたちも聖書を読み、教理問答を学ぶことによってキリスト教の正統的な信仰を持つことはできます。しかし、プリスキラとアキラがアポロの説教を聴いたとき、そしてパウロがエフェソで何人かの信徒から感じたように、聖霊を受けていないクリスチャンと受けたクリスチャンとではどこかが違うのです。
 聖霊は、自分の罪を認め、主イエスに自分の人生を捧げる決心をすることによって神から与えられます。聖霊を受けることによって、初めて実を結ぶ信仰となります(ヨハネ一五参照)。それだけでなく、聖霊はわたしたちを御国の相続人としてくださいます。聖霊は神であり、わたしたちの内に住まわれたそのお方が、わたしたちを永久の神の国へと導くからです。聖霊を受けることなくして御国に入ることはできません。聖霊はわたしたちが御国に入ることのできる証印です。そして、それは神の所有とされ、神が守られることの証印でもあります。聖霊によりわたしたちは他の兄弟姉妹と共に「キリストの体」である教会の部分とされます。そして、頭なる主イエスに導かれ、栄光の体とされ、御国の完成に至るのです。