2000年10月15日日曜日

ルカ20章27-40節「生きている者の神」

月報 第7号

 聖書には主イエスとパリサイ派の人々や律法学者との論争は数多く出てきますが、サドカイ派の人々との論争はあまりありません。ルカによる福音書ではこの個所だけです。主イエスとサドカイ派の人々の信仰とでは違いが大きすぎて、同じ土俵の上に立って論争することが出来なかったからでしょう。サドカイ派の人々は律法の書、すなわちモーセの五書だけを聖典と信じていました。律法の書には天使や霊については書かれていません。そのためサドカイ派の人々は天使や霊の存在を否定し復活も信じていませんでした。サドカイ派の人々にとって神を信じるということは、この世を律法に従って正しく生きるということでした。信仰によって初めてこの世での生活が守られ、良い家庭を築き子供を正しく育てることが出来るのでした。このことはある面で自分の生活や意志を大切にして生きることでもあったのです。

 このサドカイ派で復活はないと言い張っていた人々が主イエスに論争を持ちかけました。復活があるかないかの論争はパリサイ派の人々に対して極めて効果的だったのでしょう。パリサイ派の人々が答えに窮すると、どうだ、復活はないのだと自らの論議の正当性を主張したに違いありません。彼らは主イエスもまた答えられないに違いないと戦いを挑んできたのです。
 彼らは主イエスに言いました。モーセは「もしある人の兄が妻をめとり、子がなくて死んだなら、弟はこの女をめとって、兄のために子をもうけなければならない」と言っている。それではもし七人の兄弟がいて長男が子をもうけることなくして死に、次の兄もその女を妻とし、彼もまた子をもうけることなくして死に、遂には七人の兄弟全員が子をもうけることなく死んだならこの女は復活して誰の妻となるのか、七人全員がこの女を妻にしたのだから。この例は極端すぎて少々話に無理があるような気がしますが当人たちはしごく真面目だったと思われます。こういう論理的矛盾がある以上復活はないのだというのです。
 主イエスのサドカイ人への答えは、復活にあずかる者は天使に等しいもので、神の子でもあるのでもう死ぬことはあり得ない、だからめとったりとついだりはもうしない、というものでした。結婚に対する考え方は今では多様化していますが、本来、子供を産み子孫を残すことにありました。その意味で死ぬことがない以上、その目的は失われます。復活にあずかる者の御国での生活はこの世の生活の延長ではなく、全く違ったものとなるのです。
 復活についてはダニエル書のように旧約聖書においても極めてはっきりと書かれているものもあります。しかし主イエスはここでは柴の書、すなわち出エジプト記三章に書かれているモーセの言葉を用いて彼らと同じ土俵に立って反論されます。主はモーセに柴の燃える火から話かけられ「わたしはアブラハムの神…である」と言われました。アブラハムは紀元前一九〇〇年頃の人で、モーセは一二九〇年頃です。従ってアブラハムはモーセより六〇〇年ぐらい前の人です。にもかかわらず神がこのように言われたのはアブラハムが今も生きていることを示している、「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神である」と主イエスは言われるのです。
 しかしこの言葉にはイスラエルの人たちにそうだと思わせる背景があります。神はアブラハムがこの世に生きている時、三つのことを約束されました。子孫が増え、土地が与えられ、多くの民族の祝福の基となると言うものでした。しかし実際アブラハムがこの世で生きている間にはこの約束は成就しませんでした。一人息子のイサクとわずかな土地、マクペラの洞穴が妻のサラと自身の墓として与えられ、祝福についてはその土地の人々から尊敬を得たに過ぎませんでした。従ってこの約束はアブラハムが今も生きている、あるいは復活することがなければアブラハムにとっては成就する、あるいはしたとは言えないからです。このことからも「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神」でなければなりません。同じことはアブラハムと同じ約束を与えられたイサク、ヤコブ、そして他の族長たちにも言えます。

 復活は私たちへの約束でもあります。主イエスは私たちに「わたしは復活であり,命である。わたしを信じるものは死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」(ヨハネ十一章)と言われました。主イエスは私たちに約束されただけでなく御自身が復活されることによってその約束が事実であることを御自身の身をもってお示しになったのです。そのことを通して確かに神は死んだ者の神ではなく、「生きている者の神」となったのです。