2004年10月17日日曜日

コリント一11章2-34節「新しい契約」

第55号

 
 聖書は旧約と新約の二部に分かれています。「約」という字が共通ですがこれは「契約」の「約」です。従って古い「契約」と新しい「契約」の書を意味します。契約には当事者双方が義務を負う双務契約と片方だけが義務を負う片務契約があります。わたしたちの生活の身近な例としては、双務契約は売買、賃貸、雇用などの契約です。片務契約は遺産相続の約束や戦勝国が敗戦国に一方的に課す義務などです。
 旧約聖書に書かれている片務契約の代表としてアブラハム契約があげられます。神はアブラハムを選び、子孫を与えること、土地を与えること、そして祝福の源になることを約束されました。アブラハムに求められたのは信じたしるしとしての割礼だけで、この約束の達成のためにアブラハムがしなければならないことは何もありませんでした。神は約束された全てをご自身で成就なされるのです。双務契約の代表はシナイ(モーセ)契約です。神はイスラエルの民を奴隷であったエジプトの地から救われ、十戒を与えられました。律法への服従は繁栄をもたらし、背反は裁きをもたらします。従って人もまたこの律法に縛られることになります。この律法を守り、割礼を受けた民による宗教共同体が形成され、イスラエル(神の民)が生まれました。神はこの民に幕屋を造るように命じ、彼らの過失による罪の贖いのための羊や山羊等の動物の生贄を求められました。しかし、イスラエルの民は神との契約を守ることが出来ませんでした。契約を結んだ直後ですら金の子牛を造り、偶像を礼拝しはじめたからです。彼らはキリストを試み、裁きの対象となってしまいました(九節)。その結果、大多数の人たちは滅ぼされました。しかし、神に選ばれたきわめて僅かの人たちは信仰を全うしたのです。彼らは苦難と試練を経て、与えられた信仰を後世に継承しました。イスラエルの国家についても同じことが言えます。北王国イスラエルはアッシリアによって滅ぼされ、後に残された南王国ユダもまたバビロニアによって滅ぼされました。エルサレムと神殿は崩壊し、民はバビロンや他の異教の地に捕囚として連れて行かれました。しかし、神は時が来るとイスラエルの民を再び約束の地に戻されました。国家もまた苦難と試練を経て生き残ったのです。それは神がシナイ(モーセ)契約を守らない民であっても、アブラハム契約を守っておられるからに他なりません。

 時が満ちて神はイスラエルの民に約束のメシアを与えられました。それが主イエスです。主イエスはアブラハムに約束された「子孫」なのです(ガラテヤ三:一六)。主イエスはわたしたちに永遠の命を約束されました。この約束を自分のものにするためにわたしたちがしなければならないことは何もありません。主イエスご自身がわたしたちに代わって清い生涯を歩まれ、わたしたちの罪を贖うために十字架におつきになったからです。神である主イエスご自身が契約となられたのです。この契約はアブラハム契約と同じ片務契約です。わたしたちは信じるだけで救われるからです。そして神は信じた者たちに心の割礼である聖霊を与えられます。しかし、このように主イエスによって救われた者は、律法を守るように求められていることを知るようになります。その律法とは十戒と同じく、神を愛し人を愛するということに要約されます。それは主イエスが実行されたことでもあります。それを知って行わない者は裁かれます。しかし行うなら神の栄光を現す者となり、神からの誉れを受けるのです。わたしたちは神と双務契約をも結ぶのです。

 旧約では律法は石の板に刻まれ、アブラハムに約束されたカナンの地に建設される神の国の住民にふさわしくするものでした。しかし、新約では律法は心に刻まれ、天の御国の住民にふさわしくするのです。心に刻まれた主イエスによって、はじめて心にかかっている覆いが取り除かれ、真実をはっきりと見ることができるようになるのです。それは、わたしたちはこの世では寄留者で、来たらんとする都こそ本国ということです。御国に入る望みを持っている者にとって、誤って罪を犯すことはあっても、故意に罪を犯し続けることは出来ません(Ⅰヨハネ一:一〇、三:六)。御国を信じる者にとって、双務契約は義務とはならず、喜びとなります。石の板に書かれた古い契約は、わたしたちに罪を教えますが、主イエスの新しい契約はそれだけでなく、わたしたちの心に働きかけ、喜んで守ろうとする意志の力も与えられるのです。それが二つの契約の違いで、古い契約は新しい契約の影にすぎません。しかし、古い契約は新しい契約の理解を助けます。その意味で主イエスの契約は古い契約である十戒を成就させるものなのです。