2001年6月17日日曜日

ヨハネ3章1-15節「わたしはあなたと一緒に住む」

月報 第15号

ペンテコステ礼拝

 ヨハネによる福音書14章14~31節

 ペンテコステの出来事は主イエスが以前から弟子たちに約束されていたことでした。しかし、弟子たちは聖霊を受けて初めてそれが何であるかを知ったのです。それは今日の私たちにとっても同じです。多くの人は聖霊の存在を知りませんし、それがどれほど素晴らしいのか分かりません。そのため受けようとも、受けたいとも思わないのです。

 一般的に人は身体と魂から成っていると考えられていますが、聖書ではそれに加えて霊があるとされています(参考・第一テサロニケ五章二十三節。また聖書ではそれらを分けることが出来るとするより「からだ」として一つであると考えます)。
 若い時は、あの人は美しい、ハンサムだ、背が高い、声がいいと身体的なことにこだわりますが年を取るにつれ大切なのは内面であることに気づかされます。そして心の大きさや美しさ、温かさに引かれるようになります。私たちの心は、何気ない言葉や態度によって愛や喜びに満たされたり、傷ついたり痛んだりするからです。
 聖書は私たちの魂の根底に霊の宿るべき場があると教えます。しかし、生まれつきの人には霊がそこに宿っていない、いや正確に言うなら、かつてはありましたが、失われてしまっているのです。そのため人の心には空白感があります。その心は拠り所を失い、自分自身が何であるか、またどこから来てどこに行くのか、何のためにここにいて、何をしたらよいのか分かりません。そしてその空白感を埋めようと、人は永遠や真実の愛、そして神との交わりを求めるのです。ニコデモはユダヤ人の宗教的指導者でしたが霊については無知でした。このニコデモに主イエスは、人は本当の意味で生きるようになるために霊を受け、新しく生まれなければならないと言われました。
 主イエスは、この霊は「弁護者」であり、また「真理の霊」であると言われます。主イエスは私たちに代わってこの世で潔い生涯を送り、私たちの罪を十字架で贖って下さいました。そして私たちが死んで神の裁きの前に立つとき、御自身を信じる私たちの無罪を弁護して下さるのです。従って主イエスがこの弁護者に他なりません。又、主イエスは「わたしは道であり、真理であり、命である」と言われました。主イエスが真理なのです。主イエスは死んで天に昇られ、神の右に座られ、そして父より約束の霊を受けて弟子たちに注がれました。このようにして主イエスは「命を与える霊」(第一コリント書、十五章四十五節)となり、「私はあなたと一緒に住む」ことがおできになるのです。この主イエスが私たちの内に住まわれるとき、私たちの心に真理を証し、また生前、主イエスが語られた真理の弁護者となられるのです。その時、私たちは新しく生まれ変わり、堅固な岩に錨を下ろすことが出来るのです。そしてこの主イエスは私たちの平和、平安、喜びの源となるのです。
 以前、ジョニー・エリックソン・タダという人の書いた本を読んだことがあります。彼女は十七歳の夏、ダイビング事故で首の骨を折り、首から下が麻痺してしまいました。息をし、食べて寝るだけの生活から生きる意味を見出すのは困難です。このような体で人生を送ることの空しさ、そして与えられた過酷な運命に対する怒りと絶望から救われたのは主イエスによってでした。主イエスが心の中に生きていおられるのを知ってから、彼女はアメリカ国内だけでなく日本やヨーロッパ、アフリカと世界を回って、自分はどのように救われたのか、主イエスがどのようなお方であるかを証し始めました。

 最近、悲惨な出来事が相次いで起っております。特に大阪で八人の小学生が殺された事件は私たちの心をどうしようもないほどに陰うつにさせます。また、電車の中で目と目が会っただけで、足と足が触れただけで相手を殴り、時に殺してしまうのは一体どうしてなのでしょうか。それは自分で何をしているのか分からないからです。人は神である主イエスを受入れることによって初めて本当の自分を取り戻すことが出来るのです。
 多くの人はこのような霊の存在を教えられてもなお、自分は変えられたくないと思うのではないでしょうか。それは変わるのを恐れるからです。自分の人生は自分で思いのままにしたい、たとえ神であっても知らない主イエスに自分の生涯を委ねたくないと思うからです。あるいは、自分は変わりたくてもどうせ変われないと諦めているのです。
しかし、主イエスを信じ、受け入れる決心をした人の心は生きる意味を見出し、喜びで満たされるようになります。その人は主イエスと共に人生を歩むのです。神である主イエスは「わたしはあなたと一緒に住む」と約束されているからです。