第149号
ユダヤ人たちは民衆、長老たち、律法学者たちを扇動し、ステファノを最高法院に連れて行きました。そして、「この男は、この聖なる場所と律法をけなして、一向にやめようと」しない、「あのナザレの人イエスは、この場所を破壊し、モーセが我々に伝えた慣習を変える」と言っていた、と訴えました。大祭司が、「訴えのとおりか」と尋ねると、ステファノはイスラエルの歴史を回想し、預言者たちと律法に不忠実であった民の罪を指摘し始めました。そして「いったい、あなたがたの先祖が迫害しなかった預言者が、一人でもいたでしょうか」、今や、その預言者が証したように、神である主イエスがこの世を救うために来られると「あなたがたがその方を裏切る者、殺す者となった。天使たちを通して律法を受けた者なのに、それを守りませんでした」と彼ら自身の罪を糾弾しました。それを聞いた人々は激しく怒り、歯ぎしりをしました。
ステファノは聖霊に満たされ天に顔を向けると「天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える」と言いました。すると、人々はその言葉が聞こえないように大声で叫び、手で耳をふさいでステファノ目がけて一斉に襲いかかりました。彼らにとってこのステファノの言葉は神に対する冒涜でしかなかったのです。イエスは人であるにも拘らず自分を神とした罪人だったからです。その冒涜のために彼らはイエスを木に掛けたのです。彼らはステファノを都の外に引きずり出し、石を投げつけました。ステファノは「主イエスよ、わたしの霊をお受けください」と言い、ひざまずいて「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と大声で叫び眠りにつきました。
ユダヤ人たちは神を信じ、預言者を敬っていました。彼らにとってアブラハムは信仰の父であり、モーセはエジプトで四百年間奴隷であったイスラエルの民を導き出し、荒野で幕屋と律法を与えた偉大な指導者でした。ダビデは偉大な王であり、ユダヤの勢力を世界に広げた百戦錬磨の将軍でした。彼らにとって神を信じ、預言者を敬うということは自分もまた神と人の前に立派になり偉大になることを意味していました。そのために人々は神殿を築き、律法を厳守しました。同じことはわたしたちにも言えます。誰も多少なりとも神とこの世に貢献したいと思っているからです。良い行いと努力で神に喜ばれ、「忠実な良い僕だ。よくやった」と言われたいのです(マタイ二五章二三節)。
ユダヤ人たちは、神が預言者に約束された、来るべきメシアもまた力と栄光に満ちた方で、モーセのように自分たちイスラエルの民をローマの頸木から解放してくださると信じていました。しかし、主イエスは彼らが期待していたようなメシアとは違いました。貧しく、権力もなく、生まれつきの偉大さもありませんでした(イザヤ書五三章)。主イエスが人は預言者を信じたり、律法や神殿の祭儀を守ることによって救われるのではなく、ご自身を神と信じることによってのみ救われると言われました。それらのものは陰にすぎず、真なるものが現われる時までのことだと言われるのです。この主イエスにユダヤ人たちは躓きました。
主イエスの十字架も、ステファノの殉教も、全ては神のご計画でした。神はその目的を実現させるためにはご自分の民への迫害さえ利用されるのです。神は創造者でわたしたちは被造物なのです。主イエスの十字架によって救いがこの世に到来し、ステファノの殉教によって福音はユダヤ人から異邦人に広がりました。わたしたちは「この罪を彼らに負わせないでください」と祈ったステファノに倣い、彼と同じように主イエスに従うことが求められているのです。