2003年9月21日日曜日

ヨハネ10章1-6節「羊はその声を聞き分ける」

第42号

 
羊飼いは自分の羊に声をかけ、羊は自分の羊飼いの声が分かる。この羊飼いと羊の関係はパレスチナに住む人であれば誰でも知っていることです。主イエスはこの事実をそのまま御自身とわたしたちとの関係として語られています。
 羊飼いは朝、囲いから羊の群れを出し、牧草地に連れて行きます。そこで青草を食べさせ、水を与え、夕方には再び囲いに連れ帰ります。羊相手の単調で、忍耐のいる仕事です。しかも、時に非常に危険な仕事ともなります。盗人や強盗は夜、囲いを乗り越えて入って来ます。そして羊飼いを装って羊を連れ出そうとします。中には羊を殺し、囲いの外で待っている仲間に渡して持ち去ろうとします。また、狼や熊、時にライオンといった野の獣から群れを守り、戦わなければなりません。迷った羊がいれば探し出し、穴に落ちた羊がいれば助け出します。一瞬の判断が羊の命を助け、その判断の誤りにより自分の命をも危険にさらすのです。羊は羊飼いなしには生きていくことは出来ません。
 ある学者はパレスチナを旅行した時、羊飼いたちが井戸のほとりで羊に水を飲ませた後、それぞれ羊の名を呼んで集め、また戻って行ったと報告しています。また他の旅行者はエルサレムの郊外で羊飼いと羊の群れに出会い、試しにその羊飼いから外套を借り、教えてもらったとおりに羊の名を呼んだところ何の反応もありませんでした。しかし、その羊飼いが呼ぶと羊は集まって来たそうです。羊は自分の羊飼い以外の者の後には決してついて行きません。その声を知らないからです。

  前の章、九章には生まれつき目が不自由だった人が主イエスによって癒された出来事が書かれています。この出来事もまた羊飼いと羊との関係を表しています。羊はすぐ迷うのですが、この人もまた他人に手を引かれなければ歩くことは出来ませんでした。羊は弱く、外敵に対して無防備ですが、この人もそうでした。羊はおとなしい動物ですが、この人もまた道端に座って恵みを請う以外は声を出すこともなかったでしょう。そして羊は羊飼いに従順です。泣き声を上げることもなく毛を刈られ、またほふり場に連れて行かれるのです(参照、イザヤ五三章)。この男も主イエスに泥を目に塗られ、シロアムの池に行って洗いなさいといわれると出かけたのです。そして目が開かれました。羊は羊飼いの後についていくのですがこの人もまた自分の目が開かれたことをすぐさま証しし始めました。
 多くのキリスト者は、自分は主イエスを神の子と信じているから救われていると言います。ルターの信仰義認を自分の都合の良いように解釈し、信じるだけで救いは十分と考えているのです。しかし決してそうではありません。癒された男の両親は自分の息子の目が見えるようになったのはイエスによると信じていました。当時、このような奇跡を行うことの出来るのは神から遣わされた者だけと人々は信じていたからです。しかし、ファリサイ派の人々に聞かれたとき両親はその事実を証ししようとはしませんでした。どうして目が見えるようになったのかわたしたちには分からない、直接あの男に聞いてくれ、と逃げたのです(九:二一)。迫害され、村八分になっては生きていくことは出来ないと考えたからです。それはこの男が住んでいた近所の者たちや道端で物乞いをしていたのを知っていた人たちも同じです。

 信じるだけで救われるならサタンですら主イエスを神の子と信じて恐れおののいているのです(参照、ヤコブ二:一九)。また、主イエスは、主よ、主よ、と言うものが救われるのではなく、主イエスの御心を行う者が救われる、と言われています(ルカ六:四六)。主イエスを信じるには仕える、従うということがなければなりません。わたしたちは主イエスを心で信じ、口で告白しなければならないのです(ロマ一〇:一〇)。
 多くのキリスト者は証ししようとはしません。訊ねられても牧師に聞いてくれ、そのために牧師がいるのだと言います。クリスチャンでない人と同じ生活をしているのなら迫害を受けることはありません。ギリシャ語では「証し人」と「殉教者」とは同じ語源です。証をすることによって迫害を受けるのです。
 羊飼いは主イエスです。そして盗人であり強盗なのはファリサイ派の人々です。問題は誰が羊なのかということです。もしあなたが羊なら主イエスはあなたに語りかけられ、あなたはそれが主イエスの声であるのが分かるのです。その声によって羊に命が入るからです。そして羊は主イエスに従うのです。従うこととは主イエスを証しすることであって、それが永遠の命に至る道なのです。