2006年9月17日日曜日

マタイ26章1~16節「香油を注ぎかけた」

第77号

主イエスがベタニアで重い皮膚病の人マタイの家で食事を取られていると、一人の女が高価なナルドの香油の入った壺を砕いて主イエスの頭に注ぎかけました。その香油の価値は三百デナリオン以上と言いますから、おおよそ労働者一年分の賃金に当たります(マルコ一四:五)。それを見た弟子たちは憤慨して「なぜこんな無駄遣いをするのか。高く売って貧しい人に施すことができたのに」と言いました。過越祭では貧しい人に施しをしたのです。弟子たちは主イエスも同じ考えで、この女をとがめると思ったことでしょう。しかし、主イエスは「なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ」と言われました。
 わたしたちもこの弟子たちと同じように考えるのではないでしょうか。主イエスが二日後に十字架につけられるのを知っていたなら話は別ですが、こんなに高価な香油を主イエスに注ぎかけるのは余りにも、もったいないからです。しかし、そのことを知っていたのは主イエスだけでした。

 わたしたちには神の思いは分かりません。神の思いとは別の、自分の考えを持っているからです。哲学者デカルトは「我考う故に我在り」と言いました。デカルトは考える自分の存在はどうしても疑いえない。従って他人や外界とは独立に自分が存在している、と結論づけました。わたしたち人間だけが物事を客観的に見ることが出来るのです。
 アインシュタイン以前、人々はニュートンの考えに従って、宇宙は星を入れる無限の器であり、時間もまたそれから独立して初めも終わりもない存在だと考えられていました。今、わたしたちはアインシュタインの相対論によって、宇宙と時間は無から生まれたことが分かるようになりました。しかしこの事実は聖書が数千年前から教えていたことなのです。
 無から創られた被造物にすぎない人間は神について知ることはできません。主イエスを知ることによって初めて神がどのようなお方であるかが分かるのです。神に「仕える」ということの意味もまた、わたしたちの考えでは理解できません。このことについてもわたしたちは聖書から学ばなければならないのです。
 エズラ記には七十年間バビロンで捕囚だったイスラエルの民の帰還について書かれています。八章にはエズラが四~五千人の人たちを率いて金銀など時価数億円を携えエルサレムに上ったことが記されています。これらの金銀はペルシャの王アルタクセルクセスと高官たちから、そしてイスラエルの民で帰還できない者たちからの神殿への献げものでした。バビロンからの帰還は第二の出エジプトです。モーセに率いられたイスラエルの民はエジプト人からの分捕りものとしての金銀を携え、荒野に出て行き、約束の地を目指しました。それらの金銀などは幕屋の建設に使われたのです。
 主イエスの頭に香油を注ぎかけた女も同じです。自分の持っている物の中で最も大切な香油を主イエスに献げたのです。この女はかつて罪の「奴隷」だったのかもしれません。主イエスによって罪が赦され「自由」の身にされたに違いありません。「香油を注ぎかけた」のは主イエスへの愛と感謝のしるしだったのでしょう。それに対して弟子たちは「なぜこのような無駄遣いを」と言い、わたしたちもまた「高く売って貧しい人に施すことが出来たのに」と思います。しかし、主イエスはわたしたちが何をするかより、何故そうするかに関心を持つておられます。この女の人にとって「香油を注ぎかけた」ことは自分の命を主イエスに注ぎかけたことに他ならなかったのです。
 この女のしたことは結果的に主イエスの埋葬の準備となりました。また、油を注ぐことはイスラエルでは王となる儀式でもありました。主イエスは死んで復活され、メシアとしてわたしたちを支配されるのです。

 「仕える」は「栄光を帰する」ことです。ウエストミンスター信仰基準、第四章「創造について」の一には、神はご自分の永遠の力、知恵、栄光のためにすべてのものを無から創られた、とあります。この宇宙を、そして人を創られたのは、ご自身の栄光の現われるためであり、わたしたちが神に栄光を帰するためなのです。「主の祈り」に「み名をあがめさせたまえ」とあるとおりです。
 この女は「香油を注ぐ」ことによって主イエスに栄光を帰し、主イエスはそのことを喜ばれました。罪を赦され永遠の命を約束されたわたしたちもまた、自分の最も大切なものを主イエスに捧げることによって主に栄光を帰することが求められているのではないでしょうか。わたしたちにとって最も大切なものは何でしょうか。それは「いのち」に他なりません。わたしちのいのちでもって主イエスに仕えることが求められているのです。