2012年1月15日日曜日

フィリピ書1章1-2節「恵みと平和が」

第141号

 この書簡の著者はパウロに間違いないと言われています。一節にパウロの名が記され、初期の教会指導者や神学者もパウロが著者であることを認めています。文体、言葉遣いもパウロ独特の素朴さ、繊細な感情、率直な感情がほとばしり出ています。書かれた時期は六十一年の後半で、場所はローマの獄だと言われます。パウロの獄中書簡にはこの他にエフェソ、コロサイ、ピレモンがあります。
 パウロがテモテ、シラス、ルカを伴いフィリピを訪れたのは第二次宣教旅行の時でした(使徒言行録一六章参照)。アジア州、ビティニア州に行くことを聖霊によって禁じられたため彼らはトロアスに行きました。すると夜、一人のマケドニア人が幻で現れ、パウロに「マケドニア州に渡って来て、わたしたちを助けてください」と懇願しました。パウロたちは、それは神の召しであると確信し、ネアポリスを経てフィリピに行きました。そこでリディアという婦人に出会いました。彼女は福音を信じ、家族と一緒に洗礼を受けたのです。フィリポの集会はこのようにして生まれました。パウロがカイザリアからローマに送られたのはそれから十年後でした。フィリピの集会はパウロのところにエパフロディトを遣わしました。彼がフィリポに帰る時この書簡が託されたのです。この書簡はパウロの書簡中最も個人的なものだと言われ、また、「喜びの書簡」とも言われます。「喜び」、「喜ぶ」という言葉が十回以上出て来ます。その喜びとは「神が人となってこの世に来られた」ということに尽きるのです。

 一節、二節はパウロのエフェソの人たちへの挨拶です。パウロの他の書簡には自分はイエス・キリストの「使徒」であることが書かれていますが、ここにはありません。彼らにそのことを言う必要はなかったのでしょう。「使徒」とは生前の主イエスに従い、復活の主イエスに会った人たちのことです。主イエスは復活から四〇日後に彼らの見ている前で天に上げられました。「使徒」という名には、この主イエスを証する特別な役目とそれに伴う権威がありました。パウロは自分をその一人としています(Ⅰコリント一五章八節)。パウロは自分は「キリスト・イエスの僕である」と言います。「僕」に当たるギリシャ語(デュロイ)は「奴隷」です。このことはパウロは自分ではなく、主イエスの意志だけに従っていることを意味します。主イエスがパウロの全ての責任を負って下さるのです。パウロはフィリピの人たちを「聖なる者たち」と呼んでいますが、それはあくまで「キリスト・イエスに結ばれている」ことによるものであって、いわゆる立派な人という意味での「聖人」ではありません。主イエスは十字架でわたしたちの罪を贖ってくださり、それによってわたしたちは神の前に罪なきものとされました。それはあくまで神との契約に基づくもので、わたしたちが神の言葉を信じて「洗礼」を受けることによって成立するものです。従って、人の資質の有無によるものではなく、神の意志に基づくものです。フィリピの集会には「監督」と「奉仕者」がいました。「監督」と「長老」とは同意語で、教会の指導者のことです。「奉仕者」とは「執事」のことで、財政、物資、また様々な奉仕で教会に仕えた人たちです(使徒一章参照)。パウロはフィリピの人たちの「恵み」と「平安」を祈りますが、「恵み」とは回心時における恵み、契約によって「主イエスに結ばれている」ということでもありますが、それ以上に毎日の生活で必要な時に受ける「恵み」のことです。「平安」とは主イエスの十字架による和解ということだけでなく、日々の生活における祈りと感謝を通して得られる神の「平和」です。

  「主イエスに結ばれている」、それは主イエスの霊によって結ばれているということに他なりません。テモテとパウロは主イエスと人々への愛と奉仕で結ばれていました。彼らには青年と壮年という年の違いがありました。それは熱意と経験、衝動と知識、ほのかな希望と静かで豊かな確信の違いでもありました。パウロにとってテモテは自分の子以上の存在でした(Ⅰテモテ一章二節、一八節)。パウロとフィリピの集会もまた「主イエスに結ばれて」いました。フィリピの教会はパウロのために祈り、様々な援助をしました。貧しいエルサレムの教会を助けるために、彼らは自分たちが出来る以上のことをしたのです。そうすることにより彼らはパウロの宣教に関わっていたのです。パウロもそのような彼らを覚え、絶えず祈りました。
 わたしたちもまた「キリストに結ばれている」のです。洗礼を受け、聖餐にあずかり、契約の民とされているからです。「聖なる者たち」で、「神によって選び分かたれた聖でない人々(罪人)」です。契約により、同じ天にある故郷を約束されているのです。そこにわたしたちの過去でない、将来でもない今の「恵みと平和」があるのです。