2001年9月16日日曜日

コリント一15章12-28節「初穂なるキリスト」

第18号

 〈逝去者記念礼拝〉

詩編90編1節-17節    

 8月28日(火)、一人の姉妹が天に召されました。また、昨年の10月と12月にも葬儀がありました。
 詩編九十編には全ての人は死ぬと書かれています。古今東西、永遠に生き続ける人はいません。しかし、私たちは普段、死についてはあまり考えません。特に若い時は、自分の人生は永遠に続くように思っています。大病するとか、事故にでも会わない限り、死は自分とは関係がないのです。しかし、年を取るに従って人は死を考えざるを得なくなります。


 若い時、私たちには力があり、将来への希望がありました。この間、NHKテレビで青春歌謡特集をしていました。番組は明日、将来、希望、力、頑張ろうといった言葉で溢れていました。
 若い時、一人暮らしをした事があります。大変でしたが楽しい経験でもありました。そして、その後の三年半のアメリカ生活は本当に素晴らしいものでした。しかし、四十代の後半になって仕事の都合で宇都宮に単身赴任した時は、大変で辛いだけでした。日曜日、NHKの大河ドラマが終ると、さあ、これから戻らなくてはと胃が痛くなったものです。ある冬の夜、仕事からアパートに帰って暗い部屋に灯りをつけようとして急に父親を思い出しました。父も同じような苦労をしていたのかと身近に感じたのです。亡くなった父も仙台に単身赴任したことがあったからです。
 父に続き、二歳違いの弟が亡くなり、母や妹たちは秋田に行き、そして一人息子もまた巣立って、今、牧師館に夫婦二人だけの生活です。先ほどの詩編に、瞬く間に時は過ぎ、人生は飛び去り、ため息のように消えうせるとあります。五十代の半ばを過ぎて、私もまたこの言葉の持つ意味が少しずつ理解出来るようになって来ました。
 人生がこの世だけのものであるなら、私たちの人生にはどのような意味があるのでしょうか。パウロは「もし、使者が復活しないとしたら、『食べたり飲んだりしようではないか。どうせ明日は死ぬ身ではないか』ということになります」と言います(三十二節)。しかし、旧約の人たちは救い主を待ち望む信仰によって救われていたのです。「主よ、帰って来て下さい。いつまで捨てておかれるのですか。あなたの僕(しもべ)らを力づけてください」とあります。彼らはシメオンやアンナと同じように、主イエスを御国で直ちに認め、その足もとに駆け寄ってひざまずき、救い主を讃美するのです(ルカ、二章参照)。
 旧約聖書が救い主を待ち望む信仰を人々に与えるなら、新約聖書はこの救い主が私たちに与えられた事を教えます。コリント一、十五章十二節~二十八節には何と十六回もキリスト(油注がれた者、救い主の意、ヘブル語はメシア)という言葉が繰返されています。キリストは復活されたのです。そしてこのキリストの復活こそ、キリスト教の最も大切な事実であって、このことなくしてキリスト教は生まれませんでした。

 弟は四十七歳で亡くなる三年前に直腸ガンと診断され、肺から脳、そして骨に転移しました。そのような中で、「兄さん、この苦しみも永遠の命に比べれば無に等しい」と言ったのが思い出されます。まだ小学生の二人の娘を残して死ななければならなかったのはどれほど無念な事だったでしょう。弟は八月に天に召されました。私はそれまでの祈りと御言葉に従い、道が開かれるままに十月に仕事を辞め、翌年の四月神学校に入りました。
 キリスト者はこの世だけの事を大切にし、神と人を愛するだけのいわゆる良い人ではありません。弟がそのような人であるなら、残される子供の事を考え、神は何故、今、私の命を取られるのか、私が何をしたのか、と神を恨んだ事でしょう。しかし、弟は後に残していく娘たちと再び会えるのを信じていたのです。そして苦しみのなかにあっても聖霊が必要な助けを与えて下さっていたのがよく分かります。その顔は安らかで、確かに神はおられるのを確信させられました。私も高校生の息子の将来の事だけを考えるなら、せめて大学を出るまでと職場の机にしがみついていたでしょう。その息子も無事に大学を卒業することができました。弟の連れ合いはその後、牧師と再婚し、娘たちは今、大学生と高校生です。私たちが神を第一にして生きるなら神は私たちに良い生涯を備えて下さいます。それは決して安易で快適な生活を約束するものではありません。しかし、神の国があるのを知るようになるのです。主イエスが支配される国です。
 この主イエスが最後の敵として滅ぼされるのが死です。私たちは愛する者と再び会う事が出来ます。そして、その確かな初穂として、主イエスは甦られたのです。