2001年7月15日日曜日

使徒11章1~18節「あなたと家族を救う言葉」

第16号

  創世記16章9節~14節    

 カイサリアではペトロの働きによってローマ人の百人隊長コルネリウスと彼の親類、そして親しい友人たちが神の言葉を受け入れました(十章)。しかし、そのことを耳にしたエルサレム教会の信徒たちは、ペトロがカイサリアから戻って来ると、非難し始めました。彼らが問題にしていたのは、「あなたは割礼を受けていない者たちのところへ行き、一緒に食事をした」ということでした。

 神はユダヤ人の祖先であるアブラハムとその子孫に土地を与える約束をしましたが、身体を傷つける割礼はその契約のしるしでした(創世記十七章九節~十四節)。その割礼によりユダヤ人たちは神の契約は自分たちだけに与えられていると信じたのです。また、食事規定は神がモーセをとおしてイスラエルの民に与えられたもので、生き物を清い物と汚れた物に分け、清い物だけを食べなければならないとするものです(レビ記十一章)。清い物を食べている自分たちユダヤ人だけが聖別され、聖なる神に受け入れられると考えたのです。
 ユダヤ人の割礼と食物規定は、厳格に守れば守るほど、それらを守っていない他の人たちを自分たちとは違う異邦人とみなし、彼らとの交わりや結婚を困難にしてしまいます。事実、それがユダヤ人の歴史でした。そしてこの事が、ユダヤ人が小さな民族ではあってもアブラハムの時代から今日まで存続した理由でした。
 割礼を受けていない者と一緒に食事をしたペトロを認めるなら、自分たちもまた異邦人を受け入れなければならなくなります。そうなるとユダヤ人と異邦人の区別はなくなり、神に選ばれた民としての、自らの存在の根拠を失ってしまうのです。

 このような非難に対してペトロはどのように弁明したのでしょうか。彼は事の次第を順序正しく説明したのです。
 まず、ヤッファの革なめし職人シモンの家にいた時、昼、祈るため屋上に上がりました。するとそこで幻を見ました。天が開き、大きな布のような入れ物が四隅でつるされて、地上に下りて来たのです。その中には、あらゆる獣、地を這うもの、空の鳥が入っていました。そして、「ペトロよ、身を起こし、屠って食べなさい」と言う声がしたのです。その事が三度あり、その入れ物は天に引きあげられました。その幻の意味について考えている時、カイサリアのコルネリウスのところから三人の使いが到着しました。これらの事が神から出たことを確信し、彼らを家に入れ、翌日、カイサリアに六人の信徒たちと出発したのです。カイサリアに着くとコルネリウスから天使が彼に告げた御告げを知らされました。それは、「ヤッファに人を送って、ペトロと呼ばれるシモンを招きなさい。あなたと家族の者すべてを救う言葉をあなたに話してくれる」と言うものでした。それを聞いて、集まっている人たちに主イエスについて話し始めると、直ちに彼らの上に聖霊が降ったのです。
 割礼を受けていない者たちに聖霊が降ったこの出来事は、ペトロに生前、主イエスが言われた「ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは聖霊によって洗礼を受ける」を思い出させました。
 ペトロを非難していたエルサレム教会の信徒たちは彼の説明に納得し、「それでは、神は異邦人をも悔い改めさせ、命を与えて下さったのだ」と言って神を讃美したのです。

 コルネリウスが遣わした三人の到着が一時間早かったらどうでしょう。ペトロの泊まっていた家の主人シモンは、異邦人である彼らの訪問を丁重に、しかしはっきりと断ったことでしょう。到着が一時間遅れてもやはり同じ事になったでしょう。ペトロに「ためらわないで一緒に行きなさい」と言われた主イエスが、このすべての出来事を支配しておられたのです。そして、その神は聖霊を与えられるのにユダヤ人と異邦人の区別をされなかったのです。エルサレムの教会の人たちは、ペトロと六人の同行者の証によって異邦人が主イエスを受け入れ救われたのを知ったのです。

 私たちは正しい人、清い人、立派な人でないと救われないと考えます。しかし、神は人を分け隔てせず、どのような人も受け入れられるのです。私たちに必要なのは罪を告白し、主イエスに従う決心をすることです。そうするなら聖霊が与えられます。これが救いで、主イエスの福音です。それが「あなたと家族を救う言葉」なのです。
 聖霊を与えられ救われた者は、割礼は心の割礼、すなわち聖霊を受けることであることを知ります。聖霊を受けて初めてどのような人であっても神の家族の一員になり、そして、今度は主イエスと共に食卓にあずかることを赦されているのを知るのです。