2002年9月15日日曜日

ロマ章10章5-21節「キリストの言葉を聞く」

第30号

 

申命記30章11-20節

  「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです」とパウロは言います。しかしイスラエルの民はキリストの言葉を聞くことを拒否しました。「神の子としての身分、栄光、契約、律法、礼拝、約束は彼らのもの」だったからです(一〇:一~四)。彼らは自分たちに与えられた約束により律法を守ることによって救われると信じていました。彼らは自分の義を求め、神の義に従わなかったのです(一〇:三)。自分の義とは自分の良い行いで救われようとすることであって、御子イエスを信じる者たちを義とされる神の義に従うことにはなりません。神の義に従うということは、主イエスが神であることを認めその言葉に従うことです。それは、今までの自分中心の生き方、考え方から神中心に変わることでもあります。

 信仰はキリストの言葉を聞くことによって始まるとパウロは言いましたが、「聞くこと」とはドイツ語訳では「説教」と訳すのが一つの伝統となっているそうです。そして「キリストの言葉」とは聖書の御言葉です。旧約聖書もまたキリストである主イエスを証します。パウロはこの箇所でイザヤ書二八章一六節とヨエル書三章五節から「主を信じる者は、だれも失望に終わることはない」、「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」を引用していますが、この「主」はいずれも「キリスト」すなわち「主イエス」に他なりません。パウロはこのように比較的自由に旧約聖書で「主」と書かれているところを「主イエス」にあてはめて引用しています。新約聖書は主イエスを証するものです。特にその中の四つの福音書は生前主イエスが語られた言葉を集めたものです。従って礼拝での説教はキリストの言葉との対話でもあります。主イエスの言葉に従うことを聴く者に求めるからです。「『御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある。』これは、わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉なのです。口でイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです」。信仰は説教を聞くことによって始まるのです。

 しかし、キリストの言葉は私たちの心になかなか受け入れられません。それはマタイによる福音書一三章にある「種を蒔く人のたとえ」のとおりです。道端に蒔かれた種は悪い人がやって来て奪い取るのです。石だらけの所にまかれた種は艱難や迫害が起こるとすぐに信仰を棄てる人で、茨の中にまかれた種はこの世の思い煩い、富の誘惑があったとき信仰を棄てる人たちです。良い土地に蒔かれた種だけが実を結び何十倍、何百倍にもなるのです。キリストの言葉はやわらかい心に宿るのであって、固い心には宿ることができません。キリストを受け入れる、それは魂の奥深いところにキリストの言葉がしっかりと宿ることで、心に律法を記することに他なりません(エレミヤ書三一:三三)。そして主イエスの言葉が心に宿る時、心は喜びで満たされ、新しい人となるのです(二コリント書五:一七)。主イエスを受け入れるのにイスラエルの民と異邦人の区別はないのです。
  それでは神は何故イスラエルの民を選ばれたのでしょうか。それはイスラエルのためではなく神の御業、すなわち栄光のためでした。世界の民族の中で最も小さく弱いイスラエルの民を神の祭司として神に栄光を帰するために選ばれたのです(出エジプト記一九:六、申命記七:七)。そしてそれはイスラエルの民の喜びにつながるはずでした。しかし、彼らは神の言葉がゆだねられたことにより高ぶり、自分たちは特別な民だとする選民意識があまりにも強くなったため、主イエスを受け入れることができなくなってしまったのです。

 昔、マラトンでアテネを中心としたギリシア軍が、ペルシャの大軍を迎え撃って勝利を治めました。そのとき勝利を知らせるためにマラトンからアテネまでを駆け抜いて、「我が軍勝てり」と叫んで息絶えた伝令者の伝説がマラソン競技の起源だといわれています。「良い知らせを伝える者の足はなんと美しいことか」。その伝令者と同じように伝道者もまた、神の子キリストが勝利を治められた、キリストによって私たちに神との平和がもたらされたという福音を伝える者に他なりません。伝道者のよき訪れの言葉を信じる者は救われるのです。伝道者の行く先々で人々の心に平和と喜びが広がって行くのです。しかし福音を信じない者は未だに不安の中にいるのです。「わたしは、不従順で反抗する民に、一日中手を差し伸べているのです」と主イエスは言います。その手はイスラエルの民にも異邦人にも差し出されているのです。