2010年1月17日日曜日

ヨハネ3章1-15節「新たに生まれる」

第117号
〈新年礼拝〉
 ニコデモは夜、主イエスのところにやって来てこのように言いました。「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています」。ニコデモはファリサイ派に属し、サンヘドリンと呼ばれるユダヤ最高法院の「議員」でした。ファリサイとはヘブル語で「分離」という意味で、その派に属する人たちは聖書を学び、律法に厳格に従って生きることによって自分たちを他の人たちと区別したのです。偉大な使徒パウロもファリサイ派の一員でした。彼は当時の自分を省み「律法の義については非のうちどころのない者でした」と言っています(フィリピ三:四~六)。また、ユダヤ最高法院は七〇名の議員から構成され、大祭司が議長となり、律法学者、長老がその構成員となっていました。ユダヤの民事、刑事、宗教問題を扱うユダヤを統治する団体で、ニコデモはその中でも有力者でした。

ニコデモは夜、暗闇の中から突如として現れて主イエスの前に立ちました。そして「わたしどもは」と言って、国の指導者、支配者を代表して偉大なラビ、すなわち教師である主イエスに挨拶したのです。
 ヨハネの福音書では「夜」、「暗闇」には特別の意味があります。「光は暗闇に輝いている。暗闇は光を理解しなかった」とあるように、それは「この世」であって、「無知」、「罪」の象徴でもあります(ヨハネ一章、参照)。その意味においてニコデモはユダヤ人の指導者、支配者だけでなくユダヤ人全体を代表しているのです。続けてニコデモは主イエスに、「神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことができない」と言いました。
 「しるし」とは奇跡のことです。二章には、「イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現わされた」とあります(二章十一節)。主イエスはその他、様々なしるしをなさいました。それは神が人を通して働かれるということで、そのしるしを見てニコデモはあなたの語られる言葉もまた神から出ていることを認めると告白したのです。
 そのニコデモに主イエスはこのように答えられました。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」。「新たに」はギリシャ語のアノセンで、「上から」と「再び」の意味があります。夜、主イエスのところにやって来たニコデモはその言葉を当然、人間的な意味にとって「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度(すなわち、「再び」)母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか」と言いました。それに対し主イエスは、そうではなく「だれでも水と霊によって(新たに)生まれなければ、神の国に入ることはできない」と正されました。
 「霊」とはへブル語でプネウマで、「風」、「霊」、「息」の意味です。創世記の二章七節には「主なる神は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の『息』を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」とあります。エレミヤもまた主の言葉を預言して「わたしはお前たちに新しい心を与えて、お前たちの中に新しい霊を置く」と言いました(三六章二六節)。しかし、聖書をよく知っているはずのニコデモは主イエスの言葉を頑なに否定しました。「どうして、そんなことがありえましょうか」。
 律法学者やファリサイ派の人々の口癖は「わたしたちは知っている」、「あなたがたはこんなことも知らないのか」でした。同じ言葉をニコデモは主イエスから聞かされたのです。「わたしたちは知っていることを語り、見たことを証ししているのに、あなたがたはわたしたちの証しを受け入れない」と。

 主イエスは「わたしたち」と「あなたがた」を明確に区別しています。主イエスは御自身を神の子と信じる者を自分に属するものとして「わたしたち」と呼んでいるのです。それは主イエスが「天から降って来た者」すなわち神御自身であることを信じる者を指しています。
 それに対し、ニコデモは主イエスをあくまで人、つまり旧約聖書の預言者の一人のように見ています。預言者エリヤやエリシャは神から遣わされたことを証しする様々なしるし(奇跡)を行いました。たとえばシリア人の将軍ナアマンの重い皮膚病を癒し、寡婦の独り子を死から蘇らせました。それと同じようにニコデモは神が主イエスを通して働かれていると見たのです。主イエスが神御自身であるとは信じていなかったのです。
 それではわたしたちはどうでしょうか。主イエスをどのようにみるかによって「わたしたち」と呼ばれるのか「あなたがた」呼ばれるのかが決まるのです。「光」、「命」に属しているのか「暗闇」、「滅び」かが分かるのです。