2004年11月21日日曜日

コリント一12章31-13章13節「愛がなければ」

第56号

 

 人は愛した人、愛された人をいつまでも覚えているようです。そのような学校の先生、友達のことは忘れません。また、特に初恋の人は忘れられないでしょう。そして思い出すたびに心が熱くなり、心が豊かになっていきます。しかし、今日の社会の大きな問題は、愛されたことのない人が人の子の親になるということです。そこに幼児「虐待」の現実があります。精神科医の斉藤学先生は幼児虐待には四つの型があるといいます。たたく、落とす、傷つけるといった身体的虐待、言葉や仕打ちによる心理的、精神的虐待、これは外的なものより深い傷を心に残すといわれます。それから性的虐待、そして義務、責任の放棄による虐待です。児童相談所への訴えは年間一万件を越え、実数はその数倍に上るといわれます。職員や専門知識を持った人が足りないため多くの場合、適切な対応が取られないまま放置されているようです。親に愛されなかった人は自分の子の愛し方が分かりません。人から愛されたことのない人は人をどのように愛したらよいのかが分からないのです。

 「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである」と聖書にあります(マタイ六:二四)。神と富を同時に愛することが出来ませんし、自分と同じように人を愛することはできません。愛には自己犠牲が伴うからです。自分の欲望がお金で買え、自分さえよければと思うことにより、様々な社会的弊害を生み出します。時に、人は自分の子ですら邪魔になり、殺してしまうこともあるのです。いずれにせよ、人のことを考えていたら自分が落伍者になりかねない厳しい競争社会に生きています。「不法がはこびるので、多くの人の愛が冷える」時代でもあるのです(マタイ二四:一二)。
 神の本質は愛です。「見よ、わたしはあなたをわたしの手のひらに刻みつける」とあるように、神の愛は決して見捨てない、忘れないことによって示されています(イザヤ四九:一五、一六)。ルカによる福音書にある放蕩息子のたとえ話では、子は父を捨てて家を出て行きましたが、父はその子を一日たりとも忘れることはありませんでした(一五:一一~三二)。放蕩息子が家を思い出し、帰ることが出来たのは、息子の罪を御自分の十字架で赦している父がいたからです。その前提なくして、何故、父がこの放蕩息子をとがめることなく赦しているのかが分からなくなります。この放蕩息子の帰りを待つように天の父はわたしたちを待っています。たとえわたしたちの罪はどのようなものであっても、神ご自身のいのちによって既に贖われているのです(ヨハネ三:一六)。
 わたしがアメリカの大学に留学していた時、中国から来た王常明という方がいました。北京の近くの出身でしたが、第二次大戦後、共産党に追われ、国民党と共に台湾に逃れて来たキリスト者でした。台湾で弁護士になるための勉学の最中、牧師となる召命を受けました。そして牧師になりアメリカに留学して来たのです。既に結婚し、二人の子供がいましたが、留学中は親しくさせていただきました。しかし、卒業と同時に彼はアメリカに留まり二十数年の歳月が流れました。その彼が、わたしが牧師になったと聞いて日本にやって来ました。そして彼の口から出た言葉はわたしを驚かせました。毎朝、一日も欠かさずわたしが伝道者となるように祈っていたのです。その祈りが答えられたというのです。中国人でしかもこのように遠く離れていても祈り続けることができたのは主イエスの祈りを祈りとしてきたからに他なりません。

 「信仰、希望、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である」とあります(一三:一三)。わたしたちが死んで復活し、御国に入るなら、信仰も希望も全てが現実となります。しかし、愛だけは御国でも続くのです。愛は決して止むことはありません。信仰、希望、愛があれば祈ることができます。しかし、その中で最も大切なのは愛です。愛があれば祈り続けることができるからです。妻とわたしは秋田に住んでいた母のために祈っていましたが、今年のイースターに受洗しました。愛の伴う祈りによって人は救われるのです。愛する者のために祈って下さい。夫、妻、子供、孫のために祈るのです。愛があれば決して見捨てることなくその人を思いやることができます。そして、この愛の祈りの輪を他の人へと少しずつ広げて、大きくしていくのです。今日の社会の問題は自分中心による愛の欠如ですが、祈りによって人を愛することができるように変えられます。そして、わたしたちの教会も「祈る教会」に変えられ、「伝道する教会」になるのです。