第28号
使徒言行録2章37-39節
人は自分の好きな趣味なり仕事に熱中している時、生き生きとして見えます。そのような時あの人は生きているといった表現をします。反対に生きていても死んでいる人はいます。同じように神はご自身の前で生きている人と死んでいる人をご覧になるのです。神の前に死んでいる人とは肉に従って歩んでいる者であり、生きている人とは神の霊に従って歩んでいる者です。肉に従って歩んでいる者とは、生まれたままの状態で、回心、すなわち主イエスに出会い、自らの罪を告白し、従う決心をしていない人です。それに対して霊に従って歩んでいる者は回心し、聖霊の賜物が与えられたのを知っている人です。パウロは「神の霊」、「キリスト」、「イエスを死者の中から復活させた方の霊」と言葉を変えながら、その霊が「あなた方の内に宿っているなら」「霊の支配下にある」、「命にある」、「生かしてくださる」、しかし「キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません」と言います。
肉に従って歩む者と回心し霊に従って歩む者との間には違いがあります。前者の目にはこの世のことしか見えません。つまりこの世のことだけを大切にして生きます。ジョン・バニヤンは「溢るる恩寵」の中で年老いた人たちがこの世にいつまでも生きていられるかのように、この世のものを追い求めて止まない様を目にする時、そして信者が、夫や妻子など、外的な損失にあった時、深い悲嘆にくれ、落胆することを知った時、不思議に思うと書いています。人は残り少ない人生を思う時、この世のこと、すなわち名誉や地位や財産、そして生にますます執着するのです。あるいは反対に人生を諦めてしまいます。この人たちにとってはこの世が全てですから、人間関係が全てとなり、絶えず人との比較で良し悪しを考えます。その結果、思い図ることは全て自分中心となってしまいます。
それに対し、後者は主イエスを知ることによりこの世だけでなく永遠性に目が開かれた人です。どこから来てどこに行くのか、また何をしなければならないかを知っています。この世の地位、名誉、財産などよりもっと大切なものがあることに気付き、主イエスに仕えるようになります。しかし、主イエスに従うことによりはじめて自分の内なる罪を知るようになります。それは、肉の弱さの故に主イエスの求めることを実行しようとしても出来ないからです。その苦悩の中から「私はなんと惨めな人間なのでしょう。誰が私を救ってくれるのでしょうか」という嘆きが生まれます。そしてこのような状況からパウロと一緒に「主イエスによって神に感謝します」と叫ぶのです。何故なら肉の弱さのために主イエスの御言葉を実行できない私たちに代わって、主イエスご自身が自ら実践して下さっているからです。主イエスは神の前に少しの罪のない生涯を送られ、その体を十字架につけられることによって肉において罪を罪として処断して下さったからです。