2002年7月21日日曜日

ロマ書8章1-11節「霊に従って歩む者」

第28号

 

使徒言行録2章37-39節

 人は自分の好きな趣味なり仕事に熱中している時、生き生きとして見えます。そのような時あの人は生きているといった表現をします。反対に生きていても死んでいる人はいます。同じように神はご自身の前で生きている人と死んでいる人をご覧になるのです。神の前に死んでいる人とは肉に従って歩んでいる者であり、生きている人とは神の霊に従って歩んでいる者です。肉に従って歩んでいる者とは、生まれたままの状態で、回心、すなわち主イエスに出会い、自らの罪を告白し、従う決心をしていない人です。それに対して霊に従って歩んでいる者は回心し、聖霊の賜物が与えられたのを知っている人です。パウロは「神の霊」、「キリスト」、「イエスを死者の中から復活させた方の霊」と言葉を変えながら、その霊が「あなた方の内に宿っているなら」「霊の支配下にある」、「命にある」、「生かしてくださる」、しかし「キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません」と言います。

 肉に従って歩む者と回心し霊に従って歩む者との間には違いがあります。前者の目にはこの世のことしか見えません。つまりこの世のことだけを大切にして生きます。ジョン・バニヤンは「溢るる恩寵」の中で年老いた人たちがこの世にいつまでも生きていられるかのように、この世のものを追い求めて止まない様を目にする時、そして信者が、夫や妻子など、外的な損失にあった時、深い悲嘆にくれ、落胆することを知った時、不思議に思うと書いています。人は残り少ない人生を思う時、この世のこと、すなわち名誉や地位や財産、そして生にますます執着するのです。あるいは反対に人生を諦めてしまいます。この人たちにとってはこの世が全てですから、人間関係が全てとなり、絶えず人との比較で良し悪しを考えます。その結果、思い図ることは全て自分中心となってしまいます。
 それに対し、後者は主イエスを知ることによりこの世だけでなく永遠性に目が開かれた人です。どこから来てどこに行くのか、また何をしなければならないかを知っています。この世の地位、名誉、財産などよりもっと大切なものがあることに気付き、主イエスに仕えるようになります。しかし、主イエスに従うことによりはじめて自分の内なる罪を知るようになります。それは、肉の弱さの故に主イエスの求めることを実行しようとしても出来ないからです。その苦悩の中から「私はなんと惨めな人間なのでしょう。誰が私を救ってくれるのでしょうか」という嘆きが生まれます。そしてこのような状況からパウロと一緒に「主イエスによって神に感謝します」と叫ぶのです。何故なら肉の弱さのために主イエスの御言葉を実行できない私たちに代わって、主イエスご自身が自ら実践して下さっているからです。主イエスは神の前に少しの罪のない生涯を送られ、その体を十字架につけられることによって肉において罪を罪として処断して下さったからです。

 多くの宗教は、魂は死んでも生き続けますが体は滅びると教えます。しかし、キリスト教は人間を魂と体に分けることの出来ないものとし、魂と肉体の復活を教えます。主イエスは私たちと同じ罪深い肉の姿でこの世に来られ私たちを救われました。しかし、私たちが救われるためには、霊によって体の仕業を絶たなければなりません(十三節)。そのためには主イエスのように肉の思いを十字架につける生き方、すなわち主イエスに倣って生きることが求められるのです。主イエスは、私は律法を廃止するために来たのではなく成就するために来た、また、あなた方の義はファリサイ派の人々より立派でなければならないと言われました。ペトロは、救われるためにどうしたらよいのですかという人々の問いに答えて、悔い改めなさいと言いました。それは今までの罪を悔いるだけではなく、これからは罪を犯さないように生き方を改めなさいということです。心から悔い改めるなら聖霊は必要な助けを与えて下さり、聖化への道を歩ませて下さるのです。だれでもキリストにあるなら新しく造られた者です。救いにあずかるために私たちはどんなに困難であっても狭い門から入らなければなりません。滅びに至る道は広くそこから入る者が多いからです。 
 残念ながらキリスト者であっても霊ではなく肉に従って歩んでいる人が多くいます。その結果は回心前のパウロのように神に仕えていると信じながら神に敵対してしまうのです。聖書は読む人に聖霊を受けなさいと何度も繰り返して言います。ギリシャ語では肉体的生命をプシュケーと呼び、永遠の命をゾーエーと呼びますが、それはゾーエーを得るために他なりません。パウロが主イエスに会って変えられたように、神の霊を受けることによってのみ救われるのです。