2002年11月17日日曜日

コリント一15章50-57節「勝利を賜わる神」

第32号

<永眠者記念礼拝>

創世記3章1-7

 神はエデンの園の中央に、命の木と善悪の知識の木を置かれました。そしてアダムとエバに、園のどの木からも食べてよい、ただし善悪の知識の木からは決して食べてはいけない、食べると必ず死ぬ、と言われました(創二:一七)。園の中央にある二本の木は絶えずアダムとエバの目に留まり、神の戒めを思い出させたのです。神を思うことは彼らにとって大きな喜びでした。それが二人に戒めを与えられた神の目的でもあったのです。
 そのアダムとエバのところに蛇がやって来ました。そして「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか」と神の戒めを意図的に歪曲し、エバに疑問を抱かせたのです。エバは訂正し「わたしたちは園の木の果実を食べても良いのです。でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてはいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました」と答えましたが、神の戒めを少し拡大解釈しています。すると蛇はエバに「決して死ぬことはない」と偽り、「それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存知なのだ」とその理由を説明しました。事実「その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた」ので、彼らは取って食べてしまいました。すると二人の目は開けたのです。

神は御自身に敵対する悪を知っておられます。しかし、アダムとエバは神のことばに従って生きていたのでそれまでは善しか知りませんでした。この時、神のことばに背いて生きる罪の側に立ったのです。アダムとエバの心を覆っていた神の霊は去ってしまいました。それは二人にとって考えられなかった、愕然とする出来事であったに違いありません。二人はすぐにイチジクの葉を取って腰に巻き、裸を隠そうとしました。神の霊の宿っていない心を隠さなければならなかったのです。神を恐れ、隠れ、顔を避けるようになりました。人は神から離れ、自分の考えで生きようとし、自分を神とするようになりました。アダムとエバはエデンの園を追い出され、霊的にも肉体的にも死ぬ者となったのです。この罪の結果はアダムとエバの子孫全てに及んだのです。

わたしたちは夜空の星や野の花を見るとき無から有は生じない、これらは偶然ではない、確かに神はおられると思います。しかし、貧困、戦争、不義、不正といったこの世の現実を見る時、神がおられるなら何故このような状況を放っておかれるのかと思います。神との知的な対決、それはアダムとエバに起こったことでした。アダムは神に「あなたが私と共にいるようにしてくださった女が、木からとって与えたので、食べました」と言い、女に、いや神に責任を転嫁させています。そこには「これこそわたしの骨の骨、わたしの肉の肉」とエバが与えられたことを喜び、神に感謝するアダムの姿はありません(創二:二三)。同じようにエバも「蛇がだましたので、食べてしまいました」と答えています。結局、このようになったのは神が悪いというのです。
 人は神から離れて生き、死で全てを終わりにしようとします。しかし聖書は、わたしたちは一人ひとり神の裁きの座に立たなければならないと教えます。神の前に自分の人生は正しかったと主張出来る人はおりません。しかし、人であり、神であられた主イエスは神の前に立つことの出来る唯一のお方です。主イエスは人の子としてわたしたち人間の全ての苦難、弱さ、罪の誘惑を経験されました。そして神である主イエスは少しの罪も犯されなかったのです。主イエスは十字架の上で「父よ、彼らをお赦しください」と叫ばれました(ルカ二三:三四)。十字架でわたしたちの罪を贖われたのです。この主イエスを神は受け入れました。わたしたちの裸を隠すには主イエスを着ること以外にはありません。わたしたちの罪の身代わりとなられた主イエスが、わたしたちの裸を再び覆って下さるのです。その意味において、今日の世界にも二本の木が立てられています。一本は主イエスの十字架で、もう一本はわたしたち自身です。一本はいのちの木でありもう一本は善悪を知る木です。十字架のことばに従って生きるのかそれとも自分の考えに従って生きるかがわたしたちに問われているのです。

 この教会から多くの人を天に送りました。彼らは信仰をもって亡くなられたのです。永眠者記念礼拝といいますが、その方々は永遠に眠り続けるのではありません。神は主イエスによって信じる者に勝利を賜わるのです。主イエスによってわたしたちは先に召された人たちと再び会う希望を持つことが出来るのです。

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