2003年1月19日日曜日

創世記1章1-3節「光あれ」

第34号

<新年礼拝>

 新しい年が明けました。子供の頃、元日の朝は太陽も空気も町もすべて、そして親の顔さえも何か新しくなったように感じたものです。陰暦の世界では、宇宙の成長、衰退を月の満ち干のように見ています。そしてそれを暦に当てはめて一年の始まりを宇宙の始まりと考えました。この考えによれば元日は新しい世界の始まりです。日本も陰暦を使用していましたので(正式には明治六年まで)その考え方は最近まで残っていました。
 しかし聖書の世界はそれとは違います。「初めに、神は天地を創造された」のです。空間と時間、そしてその中にあるすべてのものは神によって無から創造されたものです。従って宇宙は偶然に生まれたものでも、根源的なものでもありません。
 「神の霊が水の面を動いていた」とあります。聖霊なる神が創造の業に参加していたのです。「神は言われた『光あれ』」、神の創造の意志が語られた言の力によって現実の存在となったのです。ヨハネによる福音書章には「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」(一節)とあり「言葉は肉となって、わたしたちの間に宿られた」(一四節)とあります。このことにより主イエス・キリストが創造の業に参加していたのを知ります。旧約聖書の最初に三位一体の神を見るのです。「地は混沌であって闇が深淵の面にあり」ました。原始の地球の表面は厚いガスに覆われ、太陽の光が地表に届くことのないカオス的状態でした。

 光が届かない。それは罪にさえぎられ光が届かないという意味で今日の世界に重なります。今年の世界はまさに創世記で書かれている混沌と闇そのものではないでしょうか。アメリカとイラクの戦争はもう既に決まっているかのように報道されています。そして北朝鮮の崩壊は時間の問題と多くの人は言います。その前に何かが起こるのでしょうか。北朝鮮をめぐる緊張は高まっています。アメリカのような豊かな国であってもテロの恐怖があり、貧しい国では飢餓で多くの人、特に幼い子供たちが死んでいきます。エイズもまた多くの国の社会問題となっています。最近まで科学や医学の進歩はわたしたちに幸福な未来を築く期待を抱かせましたが、今やそのような楽観的な考えを信じている人はほとんどいないのではないでしょうか。クローン人間が誕生したとの未確認情報が世界を駆け巡りましたが、それは多くの人にとって決して朗報とは言えません。
 わたしたちの周りを見ても競争はますます激しくなってきています。会社は生き残りで必死です。仕事や事業に行き詰まり、借金、対人関係、家庭内のさまざまな理由から、絶望し、無気力となり、肉体や心を病み、ついには死を選ぶ人が多くいます。日本では自殺者が年間千人とも言われています。十五分に一人が自殺で死んでいくことになります。自殺はもはやニュースとして取り上げられることもないのです。
 世界の問題にしても個人の問題にしても人間の力ではもはや解決出来ないのではないでしょうか。そう思わざるを得ないところに本当の問題があります。将来何が起こるか分からない、あるいは何が起こっても驚かない社会となって来ているのです。

 原始の地球では光が地表に届きませんでした。混沌と闇の世界に神は「光あれ」と言われたのです。光が地表に届くことによって初めて地に秩序が出来、生命が生まれたのです。光はこの世に命をもたらしました。同じことがこの世界にも、そしてわたしたちの心の内面にもいえるのです。主イエスは「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」(ヨハネ八:一二)と言われました。
 ヘレン・ケラーはご存知のように盲目の聾唖者でした。少女の頃、何か気に入らないことがあると癇癪を起こし、手当たり次第、物を壊し、暴れました。混沌と闇の世界に彼女は生きていたのです。このヘレンにアン・サリバン女史はキリストの愛を伝えました。その結果、ヘレンは自分の心には黄金の部屋があり、魔法の光を宿していると証できるようになりました。彼女の心のなかに主イエスが宿ったからです。そして主イエスは彼女だけでなく彼女を通して光となって世界を照らしたのです。主イエスは「あなたがたは世の光である」(マタイ五:一四)と言われるのです。
 この世にもそしてわたしたちの心にも混沌と闇があります。そしてこれらの問題の解決はわたしたち人間の力を超えているのではないでしょうか。唯一の救いは「光あれ」と言われた神から来るのです。自分の心に主イエスを受け入れてはじめて問題は解決されるのです。そしてその光は自分だけでなく、家庭を、職場を、世界を照らすのです。

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