第67号
わたしたちは時にあの人は自分にとって好ましい、あの人は好ましくないと判断することがあります。どのような基準でそのように考えるのでしょうか。一つには「好ましい人」とは自分の思いどおりになる人のことを指すように思われます。民にとっての良い王とは自分たちの必要を満たしてくれる王です。子供にとっての良い母親は何でも言うことを聞いてくれる母親です。反対に「好ましくない人」とは自分の為に何もしてくれない人です。この世はお互いの栄光を求めます(ヨハネ五:四四)。民は王が自分たちの為に働く限り王として敬い、従います。しかし、自分たちの思うようにならないと反抗し、敵対することになります。
しかしながら、本当の意味での良い母親は子供の言いなりにはなりません。子供が甘いものを求めても必要以上には与えません。主イエスもまた、人々がどのようなものであるかを良く「知って」いました。それ故、「人々が王にするために連れて行こうとしているのを知り、ひとりでまた山に退かれた」のです(ヨハネ六:一五)。主イエスは人々の意向に常に沿う意味での王ではありませんでした。主イエスは「数多くの奇跡の行われた町々が悔い改めなかったので」叱られました。ベトサイダよ、ゴラジンよ、そして、カファルナウムよ、お前たちは不幸だ。裁きの日にはわたしを知らなかった町々の人々よりあなたがたはもっと多く裁かれる。福音はファリサイ派の人々や律法学者などの知恵ある者、賢い者たちに隠され、貧しい者、弱い者に示されたのだ、と言われました。わたしたちは自分の知恵や知識、信仰によって、主イエスを知ることは出来ません。自分の力に頼らない幼子のような者だけが主イエスのところに来て救われるのです。
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