2005年11月20日日曜日

マタイ11章20~30節「神に知られているわたしたち」

第67号

わたしたちは時にあの人は自分にとって好ましい、あの人は好ましくないと判断することがあります。どのような基準でそのように考えるのでしょうか。一つには「好ましい人」とは自分の思いどおりになる人のことを指すように思われます。民にとっての良い王とは自分たちの必要を満たしてくれる王です。子供にとっての良い母親は何でも言うことを聞いてくれる母親です。反対に「好ましくない人」とは自分の為に何もしてくれない人です。この世はお互いの栄光を求めます(ヨハネ五:四四)。民は王が自分たちの為に働く限り王として敬い、従います。しかし、自分たちの思うようにならないと反抗し、敵対することになります。
 しかしながら、本当の意味での良い母親は子供の言いなりにはなりません。子供が甘いものを求めても必要以上には与えません。主イエスもまた、人々がどのようなものであるかを良く「知って」いました。それ故、「人々が王にするために連れて行こうとしているのを知り、ひとりでまた山に退かれた」のです(ヨハネ六:一五)。主イエスは人々の意向に常に沿う意味での王ではありませんでした。

  当時のイスラエルの人々は、メシアはイスラエルをローマの支配から開放して神の国とし、近隣諸国、ついには世界をご自身の支配下に置かれると考えていました。主イエスがメシアであるなら馬に乗って威風堂々と周囲を圧倒しながら来られ、律法を守らない民を裁かれる筈でした。しかし、主イエスがロバの子(謙遜、柔和、平和の象徴)に乗ってエルサレムに入城なされたことから分かるように、人々が考えるような王とは懸け離れていました(ヨハネ一二:一二~一五)。主イエスがどれほど貧しい人たちや弱い人たちの上に目を注がれようとも、又、奇跡を行おうとも彼らはメシアと認めることはできませんでした。
 かって神の人モーセはエジプトの王ファラオの前で多くの奇跡を行いましたが、ファラオはイスラエルの神を信じようとはしませんでした(出エジプト記五~一二章参照)。ファリサイ派の人たちも主イエスに「今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば信じてやろう」と言いました(マタイ二七:四二)。このような考え方では主イエスがどれ程奇跡を行おうとも神と認めることは出来ないでしょう。
 主イエスは「数多くの奇跡の行われた町々が悔い改めなかったので」叱られました。ベトサイダよ、ゴラジンよ、そして、カファルナウムよ、お前たちは不幸だ。裁きの日にはわたしを知らなかった町々の人々よりあなたがたはもっと多く裁かれる。福音はファリサイ派の人々や律法学者などの知恵ある者、賢い者たちに隠され、貧しい者、弱い者に示されたのだ、と言われました。わたしたちは自分の知恵や知識、信仰によって、主イエスを知ることは出来ません。自分の力に頼らない幼子のような者だけが主イエスのところに来て救われるのです。

  主イエスを「知る」ということは知識ではありません。妻を、夫を「知る」といったように人格的なものです。それは「秘密がない」、「全てが露わ」にされるということで、主イエスと天の父との関係が良い例です。わたしたちは自分から神のところに来ようとはしません。自分の全てが神に知られてしまうと考えるからです。わたしたちは行いが悪いので、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないのです(ヨハネ三:一九~二〇)。しかし、神に「知られている」ということは、本当は心安らぐことなのです。実際、わたしたちは神の前に露わです。髪の毛の数まで「知られている」からです。わたしたちの全てが神に「知られている」ことを「知る」ことによって、わたしたちと神との間に初めて新たな人格関係が生まれます。主イエスとスカルの井戸のところで対話したサマリアの女が良い例です(ヨハネ四:一~四二参照)。この女にとっては初めての出会いであっても、主イエスはこの女の全てを御存知でした。犯して来た罪も含まれていました。「あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない」と言われたとき、この女は自分と話しているお方はメシアであることを知ったのです。同じようにナタナエルを弟子にする時、主イエスは彼に「あなたが…いちじくの木の下にいるのを見た」と言われました(ヨハネ一:四三~五一)。その前にナタナエルは主イエスに「どうしてわたしをし知っておられるのですか」と問いかけています。
 主イエスによって啓示される神は柔和で、謙遜なお方です。わたしたちの全てを御存知で、裁かれず、受け入れてくださるのです。罪の重荷に疲れている者、罪の重荷を負う者は主イエスのところに来ることによって救われるのです。神であるにもかかわらず主イエスはわたしたちの友となってくださり、重荷を代わって負ってくださるのです。

0 件のコメント:

コメントを投稿