2006年11月19日日曜日

ヨハネ18章28~38節「わたしの国」

第79号

〈召天者記念礼拝〉

 今年は一月二二日に石川久夫兄、三月一三日に生原優先生を主の御許に送りました。親、兄弟を天に送った者は主イエスの言われる「わたしの国」を身近に感じることでしょう。しかしながら、わたしたちが御国をどれだけ身近に感じるかは、その国についてどれだけ知っているかによります。誰も、天に上り、そこから戻ってきた者はいません(ヨハネ三:一三)。主イエスだけが神の国から来られ、戻って行かれました(ヨハネ一六:二八)。「わたしの国」を知るためには、わたしたちは聖書を読み、主イエスの御言葉に耳を傾ける以外にはありません。

 わたしがアメリカに行ったのはもう三四年前になります。二八歳でした。デトロイト国際空港に降りましたが、その時までは五大湖周辺は工業地帯なので日本の川崎のようなところだと想像していました。しかし、空港もミシガン大学に向かう道路も周りは林でした。大学のキャンパスは信じられないほど広く、芝生が見渡す限り続いていました。建物や寄宿舎を無料のバスが結んでいました。広大な土地と豊かさに驚かされました。また、言葉に関してはアメリカの生活に慣れるまで、しばらく通じませんでした。そのようなわたしを助けてくれた多くの人がいました。ボランティアの学生が英語を熱心に教えてくれました。四ヵ月後に、ホィートン大学に入学しましたが、そこでも同じでした。三年半のアメリカでの生活で、日本がどのような国であるかを外から見ることができ、自分が日本人であることを自覚することができました。
 「人」は一人では自分が分かりません。同じように神を知って初めて人間が何であるかを知ることができます。神を知ることなくして、人はどこから来てどこに行くのか、何をしなければならないかを知ることはできません。

 主イエスは「『わたしの国』は、この世に属していない」と言われました。この世は神によって創られました。そして、いつか終わりを迎えますが、神はわたしたちのために新しい天と地を用意されているのです。それは全く新しいものであって、この世とは別のものです。
 「わたしの国」である天の国は、新しいエルサレムとも呼ばれ、縦、横、高さが同じで、一万二千スタジオン(二千二百キロ)の大きな都です(黙二一)。日本と中国の北京が入る大きさですが、十二はユダヤでは完全数ですのでただ都が広大であることを意味しているだけかもしれません。この天の国には終わりはなく、永遠に続きます。太陽や月はなく、神ご自身が都を照らします。都の中心に川が流れていて、その両岸には命の木があり、その実は毎月実って、葉は民をいやします。きっと人々に聖霊が豊かに注がれていることを意味しているのでしょう。温度は一定で熱くも寒くもないでしょう。わたしたちは復活してその都に永遠に住みます。身体は永遠に生き、死も、病も、苦しみ、悲しみ、痛みもありません。心も新しく創造され、罪のない清い心となっています。戦争や争い、怒鳴りあうことも、いじめもありません。事故や、地震、津波、台風、竜巻といった自然災害もありません。全ての人の語る言葉を理解し、国籍や人種の違いもありません。そこには霊的な成長があり、喜びが満ち溢れています。
 この世のものを引き継がない全く新しい更新を、この世のものを借りて説明することはおおよそ不可能なことです。主イエスは「わたしの国」は素晴らしい国であることを、わたしたちに伝えようとされているのです。

 「わたしの国」にはどのような人が入れるのでしょうか。主イエスの言葉を信じる人が入れるのです。主イエスは「わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た」と言われました(ヨハネ一八:三七)。ピラトは主イエスに「真理とは何か」と尋ねましたが、それは主イエスが証しする「わたしの国」に他なりません。この世は移り行き、滅びますが、主イエスの言葉は真理なのです。祭司長たちや律法学者たちは「これはヨセフの息子のイエスではないか。我々はその父も母も知っている。どうして今、『わたしは天から降って来た』などと言うのか」、と言いました(ヨハネ六:四二)。主イエスの言葉を信じない人たちは「わたしの国」に入ることは出来ないでしょう。神ご自身を偽りものとするからです。
 「わたしの国」を知ることは、「この世」を知ることであって、それによりこの世での生き方は変わります。この世だけではないことを知るからです。
 召天者の存在は「わたしの国」が確かなことの証拠です(ヘブライ一二:一)。彼らはその国を信じて死んでいったからです。わたしたちもまた彼らに続き、御国を仰ぎ見ながらこの世を歩もうではありませんか。

0 件のコメント:

コメントを投稿