2009年5月17日日曜日

ヘブライ書7章1-28節「イエスは永遠に生きている」

第109号 

神殿における祭司の務めは人間がいかにして神に近づくことができるのかを教えています。大祭司は年に一度、贖いの捧げものの血を携えて聖所を通り至聖所に入りました。至聖所は神の臨在の場でした。そこで民の罪が赦されるように執り成しの祈りをし、聞き届けられた確信を得ると神殿の外に出て、待っている民に罪が赦されたことを告げたのです。祭司は「レビの系統」でした。レビはヤコブの子で、他の兄弟は嗣業の土地を得ましたが、レビとその子孫だけは嗣業の土地を持たず、民から十分の一の捧げ物を受けたのです。
 ヘブライ人の著者はこのような祭司制度をメルキゼデクと比較しています。メルクは「王」で、ツエデクは「正義」の意味です。彼には誕生と死の記録がありません。戦いから帰ってきたアブラハムを祝福し、アブラハムから十分の一の捧げものを受け取りました。このことはまだレビが生まれる前のことですから、レビもまたアブラハムによってメルキゼデクから祝福を受け、十分の一の捧げものをしたことになりました。同時に、アブラハムはわたしたちの「信仰の父」でもあるので、わたしたちクリスチャンもまたメルキゼデクから祝福を受け、十分の一の捧げものをしたことになります。
 メルキゼデクは主イエスの「ひな型」です。主イエスもまたレビの系統に属さず、突如として現われ、天の父から任命され、「誓い」によって「永遠の大祭司」とされたからです。

 主イエスは「永遠に生きている」お方です。永遠に存在するお方は神だけです。このお方によってわたしたちが今住んでいる「この世」は創られました。初めがあり、終りがある有限の世界です。「この世」に対し「来るべき世界」があります(二章五節)。そこに入ることがわたしたちの「希望」であり「救い」です。「来るべき世界」は神のもとに用意されていて、「この世」の終わりと共に天から下ってきます(黙示録二一章一~二節)。この「聖なる都、新しいエルサレム」は永遠に続くのです。「この世」と「来るべき世界」との間には断絶があります。
 「永遠に生きている」主イエスは「来るべき世」の創造者でもあります。わたしたちを「来るべき世界」に入ることができるように、「人の子」となって「この世」に遣わされてきたのです。このお方は十字架でわたしたちの罪を贖われましたが、復活し「神の子」であること、そしてわたしたちもまた復活することの確かなことを証しされました。
 このお方が「この世」の終わりの時、わたしたちを裁かれるのです。その時、わたしたちはどのように新しい「聖なる都」の一員に相応しいと主張することができるのでしょうか。「この世」でしてきたよい行いでしょうか。それともわたしたちの信仰によるのでしょうか。
 近代文明は英国で起こった産業革命から始まりました。中世に終焉を告げた文芸復興、啓蒙思想により人間の理性への信頼が著しく高まりました。人間は罪を含め様々な問題を解決できると信じ、希望に満ちた将来を夢見ることができるようになりました。しかし、この極めて楽観的な人間中心主義は結局、第一次、第二次と続いた世界大戦により砕かれてしまいました。そして今日、テロや犯罪、地球温暖化や環境破壊、貧困、差別、格差といった様々な問題が人類の将来を不透明にし、不安にしています。多くの教会や神学者がこのような「この世」の問題に取り組んできました。
 わたしたちは人間の英知を認め、社会への貢献によって「来るべき世界」の一員に相応しいと認められると思っているのでしょうか。わたしたちは神の被造物にすぎません。塵から生まれ塵に、裸で生まれ、裸で去っていくのです。「この世」の価値は主イエスの生き方と一致するのでしょうか。「新しいエルサレム」で通用するのでしょうか。それとも主イエスに救われたことによって、わたしたち自身の内に永遠の命に相応しい価値を持ったのでしょうか。

主イエスの十字架に、わたしたちの罪を赦す神の無限の愛があります。主イエスは、十字架上で「父よ、彼らをお赦しください」と祈られました。そのお方は裁きの座でも、わたしたちのために執り成してくださるのです。それ故、神はわたしたちの罪を見ずにわたしたちを「来るべき世界」の一員としてくださるのです。
 聖書の神は聖なる神で罪を裁かれる厳しいお方です。神が神であられ、人が人であるからです。もし神が厳しいお方ではなくわたしたちの友であるというのなら、それは祈りにおいてでしょう。
 わたしたちが救われるのは神であり、人であられた主イエスが十字架で流された贖いの血と執り成しによります。このお方こそ神の「誓い」によって立てられた「永遠に生きている」大祭司だからです。

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