2011年11月20日日曜日

ヨハネ11章38-44節「ラザロ、出て来なさい」

第139号

〈永眠者記念礼拝〉

出エジプト記33章18-23

  三月十一日の東日本大震災と津波により、多くの方が被災され亡くなられました。また、喪失の悲しみの中にある人たちも多くおられます。そのような方々のために祈りたいと思います。
  川越教会では昨年の永眠者記念礼拝以降、天沼武子姉を天に送りました。五月十四日で、八十五才でした。埼玉県に生まれ、川越で成長されました。川越女子高等学校に入学した翌月の五月に父親を脳溢血で亡くされました。六月から川越教会に出席するようになり、すぐに受洗されました。キリスト教を信じるようになったのは、父親の死がきっかけだと思われます、また当時の川越教会の鈴木不二麿牧師との出会いも大きかったようです。
  多くの人は生は死で終わると思っております。あるいは、肉体は滅んでも魂は生き続けると信じている人もいるかもしれません。今日の聖書の箇所は、主イエスを信じること、復活を信じることはどのようなことかをわたしたちに教えています。

 マルタ、マリア、ラザロの三姉弟はベタニヤという村に住んでいました。弟のラザロが病気になりました。マルタとマリアは直ぐに主イエスに遣いを出しました。ところが主イエスが村に着いた時にはラザロは死に、墓に入れられて既に四日が経っていました。マリアは「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言って泣きました。二人の姉にとってラザロの死はどれ程の悲しみであったでしょうか。主イエスも涙を流されました。
 主イエスは墓に着くと石を取りのけるように命じられました。マルタが「四日もたっていますから、もうにおいます」と言うと「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」と言われました。
 「神の栄光が見られる」とはどういうことでしょうか。出エジプト記三三章一八節では、モーセは主に「どうか、あなたの栄光をお示しください」と頼んでいます。それに対し主は、あなたはわたしを見ることはできない。わたしを見て、なお、生きることはできない、と答えています。わたしたち人間に神の栄光を見ることは許されていませんでした。
 この世は神によって創られたのであって、神の世界とは異なります。主イエスは神の世界からこの世に遣わされてきたお方です。主イエスは異なる二つの世界の接点となったのです。しかし、わたしたち人間は主イエスを神と認めることはできません。そのため人々は主イエスが御自身を神としたことに躓きました。それは神への冒涜である、と言って十字架につけました。主イエスはその十字架の上で「父よ、彼らをお赦しください」と言われ、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれました。この十字架の出来事こそ「神の栄光」となったのです。
 天の父は御自身の独り子を十字架につけられました。それによってわたしたち人間の罪の身代わりとされたのです。しかし、その時の天の父の気持は、いかばかりであったでしょうか。それは、主イエスのラザロへの気持ちに重なります。そして、それはラザロだけでなく、わたしたちに対する主イエスの気持でもあるのです。ヨハネ三章一六節には「神はその独り子をたまわったほどにこの世を愛された。それは御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」とあります。主イエスはわたしたちのためにも涙を流されるお方なのです。「神の栄光が見られる」とはこのようなお方が天におられるのを知るということです。

 主イエスの十字架によって、わたしたちの死はこの世の命と永遠の命の接点となりました。十字架を仰ぐとき、主イエスのこの世での働きを覚え、その死の様を思い、今、生きておられることを知ります。人の死の象徴である「墓」もまた、その人のこの世での生を覚え、死の様を思い、永遠の命に想いを馳せるところとなりました。

復活された主イエスを知ること、それは、神の国はもう既にわたしたちのところに到来しているのを知ることです。それによってわたしたちはもう復活に与っているのを知るからです。わたしたちはもう既に新たに生まれ変わっているのです。

主イエスは、「ラザロ、出て来なさい」と言われました。それはわたしたちへの呼びかけでもあります。この世から出て来て、わたしのところに来なさいと言われるのです。主イエスはわたしたちと一緒にこの人生のあらゆる苦しみ、悲しみを天において共にされているのです。そして、わたしたちに永遠の御国に入れられているという喜びを知らされるのです。主イエスの十字架はこのような民を生みました。「この世を旅する共同体」が形成されたのです。それが「教会」です。

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