2012年5月20日日曜日

使徒1章3-5節「聖霊による洗礼」

第145号

 
 主イエスは復活され「御自分が生きていることを、数々の証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話されました」。主イエスの言われる「神の国」とはどのような国だったのでしょうか。その国を弟子たちはどのように理解していたのでしょうか。
 主イエスは弟子たちと食事をされ、「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである」と言われました。主イエスは十字架に付けられる前の夜にも弟子たちと食事をされ、同じ約束をされています(ヨハネ一四章~一六章参照)。
 神の国と聖霊とは密接な関係があります。神の国とはその霊が支配する国のことだからです。旧約では預言者、王、祭司はその職務に着く時、油を注がれました。油は見えない聖霊を証するもので、実際、預言者は神から聖霊を受け、神の言葉を民に語りました。世界でイスラエルだけが神の国と呼ばれましたが、同時に神に逆らう国でもありました。預言者を迫害し、殺してきたのがその歴史でした。神は最後に御自身の独り子を遣わしましたが、人々は十字架に付けました。
 弟子たちは主イエスこそメシアであると信じていましたが、その死によってイスラエルを神の国にする夢は砕かれました。しかし、主イエスが三日目に復活されたことによって、弟子たちに「神の国」の夢が蘇ったのです。

 わたしの母は秋田におりますが、九十二歳の誕生日に電話で話しました。二年前の大病からすっかり元気になり「何時もあなたたちのために祈っている」と言っていました。それを聞いて初めて母が危篤から奇跡的に回復した訳が分かりました。親はいつも子のことを気にかけているのです。
 アブラハムはイサクを愛しました。エジプトの仕え女ハガルとの間にもイシマエルがいましたが、イサクとは比較になりませんでした。ヤコブには十二人の子がいましたが、ヨセフを特別に可愛がりました。年取って生まれた子であり、愛するラケルの子だったからです。母マリアは主イエスをどれ程愛していたか分かりません。
 親と子は血で繋がっているので、その愛には深いものがあります。それに対し、神とわたしたちとは神の霊で繋がっているのです。「神はわたしたちに、御自分の霊を分け与え」、御自身の子としてくださいました。(第一ヨハネ四章十三節)。神は愛する子たちに国を用意されましたが「だれでも水と霊とによって生まれなければ神の国に入ることはできない」のです(ヨハネ三章五節)。
 弟子たちはイスラエルが「神の国」になると信じていました。具体的には、ローマの頸木から解放され、主イエスが王となり、自分たちもまた主イエスを助けてこの国を支配するということでした。しかし、主イエスはその国に代わって、弟子たちに神の霊を授けることによって神の民をこの世に生まれさせようとしました。そして神は弟子たちを通して様々な国籍、民族から御自身の子たちを招集されようとしました。その人たちはこの世では土地を持たない民であってアブラハムの子孫という血による民族の枠を超えた、新しい民となるものでした。

明治の偉大なキリスト教思想家である内村鑑三は、自らの信仰を顧みて、自分は明治十一年(一八七八年)にキリスト教に回心し、明治十九年(一八八六年)にキリストの十字架において罪の贖いを認め、遂には大正七年(一九一八年)にはキリストの再臨を確信したと言っています。
 神とわたしたちとが親子となるという新しい関係に入ることによって、わたしたちもまた内村鑑三と同じこの信仰の道を辿ることになります。神の霊を受けるまでわたしたちは自己中心で、人生の目的は自分の希望を叶えることでした。しかし、聖霊を受けることによって自分の罪が十字架の故に赦されていること、主イエスは今も生きていること、永遠の命の確かなことを信じることが出来るようになるのです。これらのことは自分の頭では理解できないことでした(第一コリント一二章三節参照)。わたしたちは少しずつですが神中心となり、神の御心の実現こそがわたしたちの生きる目的に変えられるのです。神はそのようなわたしたちを通して世界宣教を遂行され、福音が世界に述べ伝えられた後に主イエスが再臨され、神の国が目に見える形で実現されるのです。わたしたちは今、主イエスの昇天と再臨の「間の時」を生きているのです。
 主イエスの再臨の時こそこの世の完成の時であって、この世のものが全て新しくされます。神の霊を与えられたわたしたちはその時に復活しますが、それは永遠に耐える「新しい体」を伴ったものとなるのです(第一コリント一五章四六節)。

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