2012年12月16日日曜日

ヨハネ3章16節「あなたの愛する独り子」

第152号

《クリスマス礼拝》

 

創世記22章1-8節

 アブラハムにイサクが与えられたのは百歳の時で、それ以来独り子の成長を見続けて来ました。どれ程イサクを愛していたことでしょう。神はそのようなアブラハムを「試され」ました。神は命じられ…『あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。わたしの命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としなさい』」と言われました。
 「試された」と書かれていることにより神はイサクの命を取るのではないことをわたしたちには知らされています。しかしアブラハムには隠されていたが故に、このことはあくまでアブラハムの信仰の忠誠を確かめるための教育的試練だったのです。にも拘らず、父が子の命を取るようにと求めるこの神の試みは余りにも理不尽であり、承服できないものがあります。アブラハムは妻サラに自分のしようとすることを告げることは出来なかったことでしょうし、また、普通は誰一人、アブラハムのように実行する人はいないのではないでしょうか。

  「神が、『アブラハムよ』と呼びかけ」ると、彼は「はい」と答えました。その声は確かに神の声なのかと疑問に思う余地はありません。それは父と子の関係であって、子は父の声をよく知っているのです。「モリア」の地がイサクを捧げる「神の命じられた場所」でした。わたしたちは勝手に祭壇を築き、礼拝することは出来ません。アブラハムは「次の朝早く」出立しました。神への応答を自分の意志で引き延ばすことは出来ません。三日の旅路の間、アブラハムは耐えがたい心の痛みと闘わなければなりませんでした。示された場所に近づくと、供の若者たちを待たせ二人だけになりました。イサクは薪を背負い、アブラハムは危険な刃物と火を持ち歩き始めました。長い沈黙の後、イサクは「お父さん…焼き尽くす献げ物にする小羊はどこにいるのですか」と尋ねました。祭儀について知っていたのです。父は「…きっと神が備えてくださる」と答えました。
 アブラハムはかつてカルデヤのウルを出るとき過去と決別しなければなりませんでした。神の言葉に従い故郷を離れ、肉親や友人と別れるのは辛いことでした。そして今、将来とも決別しなければなりませんでした。年老いた自分が死に、イサクが生きるならこれ程苦しまなかったでしょう。しかし、彼は神に黙々と従い、イサクもそのような父に自分の身を委ねたのです。
 「神が命じられた場所に着くと、アブラハムはそこに祭壇を築き…息子を屠ろうとし」ました。「そのとき、主の御使いが『アブラハム、アブラハム」と呼びかけ』…あなたが神を畏れる者であることが、今、分かった」と言われたのです。そして、そこには一匹の雄羊が木の茂みに角を取られていました。アブラハムはその羊をイサクに代えて焼き尽くす献げ物としました。アブラハムはその場所を「ヤーウェ・イルエ(主は備えてくださる)」と名付け、人々もイエラエ(主の山に備えあり)と呼ぶようになりました。

アブラハムはハランの地を出る時に神から土地、子孫、祝福に関する約束を受けましたが、ここで再びそれが確かなものとされてベエル・シェバに戻りました。

 
 万物は神によって創られ、支配されています。わたしたちの心も同じです。エジプトの王ファラオはモーセに聞き従おうとはしませんでしたが、その心を頑なにしたのは神でした(出エジプト記四章二一節参照)。人々が主イエスを十字架に付けたのも神の御計画でした(使徒言行録四章二八節))。わたしたち人間は「神の中に生き、動き、存在する」(同一七章二八節)のであって、神に対応する自由な存在ではありません。神がこの世界を一元的に支配しておられるのです。従って、ここでアブラハムは神の「試み」に合格した見習うべき偉大な人物として称賛されているのでも、神が彼の祈りに応えられたという訳でもありません。アブラハムが主人公ではなく、神の主権が問題とされていて、神がすべてを準備され、約束を果たされるということなのです。
 神はアブラハムに焼き尽くす献げ物としてイサクに代わって雄羊を用意されましたが、同じようにわたしたちのために主イエスが備えられたのです。洗礼者ヨハネは、主イエスを見て「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」と言いました(ヨハネ一章二九節)。御自身の愛する独り子を十字架に付けた天の父のお苦しみは、イサクを献げたアブラハムの心の痛みに重なるのです。
 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。わたしたちの身代わりの小羊の誕生こそクリスマスの出来事であって、主イエスによって神の国が到来し、永遠の命の確かなことを教えるのです。

 

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