2013年5月19日日曜日

ルカ24章44-53節「高い所からの力に覆われるまで」

第157号

《ペンテコステ礼拝》

 使徒たちのメシア理解と他の人たちの考えとは同じでした。それは当時のメシア観でした。メシアはエルサレムでローマの支配から人々を解放し神の国を造る、その国はイスラエルから世界に広がると信じていたのです。使徒たちは主イエスと一緒にその国を支配すると信じ、その為には自分の命を捨てることすら厭いませんでした。しかし、彼らの前で起こったことはそうではありませんでした。主イエスはユダヤ人指導者たちに捕まり、サンヘドリン(ユダヤ大法院)で裁判にかけられ、ローマ提督のポンティオ・ピラトのもとに引き渡されて十字架に付けられたからです。彼らの期待に反して主イエスはメシアとしての力を何も発揮されませんでした。使徒たちの失望はどれほど大きかったか分かりません。彼らは自分たちも捕らえられ、殺されるのではないかと恐れ、鍵を掛けた部屋に隠れました。多くの弟子たちは失意のうちに郷里に戻ろうとしました。エマオ出身の二人の弟子たちもそのような人たちでした。
 エマオに向かって歩いている二人に主イエスが近寄り、話しかけられました。復活の主は生前と違っていて、二人にはそのお方が誰であるか分かりませんでした。その方は道々二人に聖書を開いて、モーセとすべての預言者から始めて、ご自身について書いてある全てを解き明かされました。それは生前の主が彼らに何度も話して聞かせていたことでした。エマオにある彼らの家に着くと、その人を強いて引き留め一緒に食事をしました。その時、彼らの目が開けて主イエスだと分かりました。二人は直ちにエルサレムに戻り、それらのことを弟子たちに告げました。使徒たちもまた復活の主にお会いしたと語り合っていたのです。
 部屋に集まっていた弟子たちの真中に突然、主イエスが立たれました。亡霊が現れたと驚く彼らを御自身の体に触れさせ、また焼いた魚を食べられ、亡霊ではないことをお示しになりました。そして、「聖書を悟らせるために彼らの心を開いて」メシアは苦難を受け、十字架に付けられ、三日目に復活すること、そして「罪の赦しを得させる悔い改めが、…あらゆる国の人々に宣べ伝えられる」ことを話されました。

  使徒たちは三年前、主イエスに出会い、家族や仕事を捨てて従いました。彼らは主イエスが人々の病を癒し、死者を甦らせ、荒れ狂う波すら支配する力を持っていることを目の当たりにし、この方こそエルサレムを復興される方、メシアであると信じるようになりました。そして主が復活されたのを知ると、再び使徒たちは「神の国」がこの世に実現するのではないかと思うようになったのです。その使徒たちに主イエスは「わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都に留まっていなさい」と命じられました。三年間、寝食を共にした使徒たちは主イエスのことをよく知っているはずでした。そして苦難と十字架に続き、復活されたのを知らされました。にも拘らず、「神の国」と彼らに与えられた使命が何であるかは分かりませんでした。

 弟子たちは、主イエスから「神の国」のことを聞いても理解することは出来ませんでした。それはわたしたちにも言えることで、「神の国」は生まれつきの人には隠されているからです。人の心に神の霊が宿り、その人を支配されるということなど誰が考えることは出来るのでしょうか(ヨハネ三章一節~九節参照)。
 神は最初の人アダムを土の塵で造られ、御自身の息を吹き込まれました。それによって人は「生きた者」となりました。同じように、わたしたちも神の息を心に吹き入れられることによって、初めて「生きた者」となるのです。神の国は使徒たちが考えていたように目に見える形でやっては来ませんでした。
 教会は聖霊を受けた人たちの群れです。それは昔、エジプトで奴隷だった民がモーセによって導かれ、自由の民となったイスラエルと同じです。わたしたちも神が御自身を礼拝する民としてこの世から選び出されたからです。この選びはわたしたちの特権となるものではなく、神に仕える者とされるためでした。
 教会の使命は主イエスを礼拝し、証することですが、その力は使徒にもわたしたちにも無く、神御自身にあります。そのために「高い所からの力に覆われるまで」待たなければならなかったのです。使徒たちは、主イエスの言葉を信じ、祈って待っていたため、神の霊を受けたのです。それがペンテコステの出来事でした。主は求める者に必ずご自身の霊を与えて下さるのです。

 

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