2001年4月15日日曜日

使徒4章32-5章11節「神を欺いたのだ」

月報 第13号

 本日の聖書の箇所、使徒行伝五章十一節で初めて「教会」と言う言葉が使われています。ギリシャ語ではエクレシア、つまり、共同体、交わりを意味します。四章三十二節には「信じた者の群」とありますがこの信者の群が教会です。この教会の内部で起った恐ろしい出来事が今日の聖書の箇所です。一体どうしてこのようなことが起ったのでしょうか。

 四章三十二節から三十五節までには原始教会の理想的な姿が描かれています。信徒は物を共有し、必要なものを分け合い、彼らの中に乏しい者はいませんでした。土地や家屋を持っている者はそれらの財産を処分して使徒の足元に置き、使い道は使徒たちの判断に一任されていました。使徒たちもまたよくその務めを果たしていたのです。財産を共有するこのような教会の姿はこの時代に特有なものであってそれ以降には見られません。
 使徒の時代、教会が財産を共有した理由として幾つかのことが考えられます。一つは、信徒たちに聖霊が強く働いて私有物への執着心を無くしてしまったというものです。別の説は、主イエスの再臨は真近であると信じていたからだと言います。使徒パウロも初期の書簡で自分が生きている内に主の再臨があるであろうと書いています。また別の説では、エルサレムが陥落するという主イエスの預言を信じていたからだと言います(マタイ二十四章十五~二十二節)。実際、周りの状況もそのように動いていました。ローマからの独立を求める熱心党の活動が盛んになり、民衆も彼らを支持し、ローマとの戦争は避けられなかったからです。ユダヤあるいはエルサレムにある土地や建物などの財産より、教会の仲間の方が頼りになる、身の安全を守るには財産を整理して身軽になった方が賢明である、と考えたのでしょう。
 このような信徒たちの中でヨセフと呼ばれるバルナバのことが特に記されています。バルナバは「慰めの子」の意とありますが、それは「勇気ある子」、「勇気づける者」の意でもあります。彼はキプロス生まれで畑を所有していました。彼はそれを売ってその代金を使徒たちの足もとに置きました。遠いキプロスにある財産を処分したことは、打算のない、純粋な主イエスへの感謝と貧しい兄弟姉妹たちへの愛の故だったでしょう。またその金額は決して少なくなかったでしょう。彼の行為は他の信徒から賞賛を浴びました。「バルナバさんは素晴らしいお方ですね」と。
 アナニアとサッピラはバルナバのしたことを知っていたでしょう。そして彼のように他の信徒の賞賛を得ようとしたのです。彼らはバルナバと同じ様に財産を売りましたが、それは神への感謝と兄弟への愛からしたように見せかけた偽善です。誰も見ていない、分からないと代金を偽った不正な行為でした。しかし彼が得意そうにそれを使徒たちのところに持っていった時、彼らはそれを見抜きました。アナニアとサッピラはその時、これは売った代金の一部ですと言えば何の問題もなかったはずです。財産を売って施すようにと教会が求めたことではなかったからです。
 アナニアとサッピラのしたことは全知全能の神を信じる教会でなされたが故に神を欺く行為です。そしてこれくらいのことなら、と考えたとしたなら聖霊を試みることでした。旧約聖書では神を試みることは死に値することです。主イエスもまた荒野で神を試みるようサタンの誘惑に会われました。神は私たちのする全てのことをご存知なのです。そして、アナニアとサッピラのしたことは神を欺き、試みただけではありません。教会が成長するには信徒間の純粋な愛と信頼が不可欠ですが、それが破壊されようとしたのです。
 私たちの目から見るならアナニアとサッピラの死は厳し過ぎる裁きのように見えます。しかし、この世に生まれたばかりの教会の状況を考えるならそのような裁きは必要だったのでしょう。

 聖霊が強く働き、心を一つにし、思いを一つにしていた教会にすらサタンが入り込んで来ました。完全な教会はこの世にはありません。巧妙な方法で、あるいはほとんど無自覚のうちに自分の誉れを求めようとするアナニアやサッピラは現在でも多くの教会で見られます。原始教会以降、このようなことが教会で行われても、アナニアとサッピラに臨んだような死の裁きはなかったでしょう。しかし、私たちがそのような行為を見逃すなら、教会は衰退へと向わざるを得ません。また神はそのようなことをした人を霊的な死に至らせます。礼拝に出席しても喜びがなく、祈れなくなり、聖書を読んでも分からなくなります。
神を欺かない、それは神だけが讃美されるように求めることです。そうすることによってのみ、私たちの心は天来の喜びで満たされます。そしてそこに教会の成長があるのです。

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