2002年4月21日日曜日

ルカ24章36-49節「わたしの手や足を見なさい」

第25号

<イースター礼拝>

創世記3章15

  
 主イエスはこの世で私たちと同じように喜びと共にさまざまな苦難を経験されました。しかし、主イエスの生涯の苦難の極みは十字架にありました。十字架刑は最も残酷な刑で、ローマ帝国の支配に反逆するテロリストや反乱、暴動を起こした政治犯への見せしめのための刑でもありました。十字架刑では手と足に釘が打たれましたが、釘は腕のくるぶしの少し上の二本の骨の間に、そして足は曲げられて二つのかかとを重ね、その骨に一本打ち込まれました。体重を支えた腕の釘は肉を裂き、くるぶしのところで止まったのです。

その十字架から三日の後、主イエスは部屋に集まっていた弟子たちの中に「あなたがたに平和があるように」という言葉と共に立たれました。恐れおののき、亡霊を見ていると思っている弟子たちに「わたしの手や足を見なさい」、そして続けて「触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある」と言われ、ご自身が霊ではないことをお示しになりました。それでも弟子たちが不思議がっていると主イエスは彼らの前で焼いた魚を食べられたのです。
  甦られた主イエスは生前とはどこか違っていました。もし同じであれば弟子たちはすぐ分かったはずです。主イエスと分かるために弟子たちの心の目が開かれなければならなかったのです。別の身体、すなわち天的な身体、永遠に生きることのできる身体で甦られたのではないでしょうか。
  この主イエスの復活の出来事こそキリスト教にとって最も大切な出来事です。この出来事こそ私たちに主イエスは人であり神であられたこと、そして私たちも復活することを教えるからです。それでは何故、復活により主イエスは神であるのが分かるのでしょうか。聖書は罪の結果が死だと教えます。従って、少しの罪もなければ死はないのです。私たちは主イエスの生涯に少しの罪も見つけることは出来ませんが、それは主イエスが神であったからで、復活の事実は、罪が主イエスを死に閉じ込めておくことが出来なかったことを示しています。そして主イエスは人でもありました。マリアの子で、私たちと同じ罪の誘惑に会われたたのです。主イエスが神ということだけであるならその十字架の出来事は私たち人間とは係わり合いのない別世界で起こったことになります。また主イエスが人であるだけなら私たちの罪を贖うことは出来ません。人は人の罪を贖うことが出来ないからです。罪のない主イエスは私たち人類全ての罪を贖ったのです。主イエスの罪のない生涯を天の父は受け入れたのです。復活は旧約聖書の成就であり、ご自身が生前弟子たちに告げられたことの成就です。それを信じる私たちもまた信仰により主イエスと同じように清くされ、復活の望みを持つことが赦されるのです。主イエスの復活は私たちの初穂なのです。

 主イエスは「わたしの手や足を見なさい」と言われました。手は働きを意味します。主イエスの手はご自身の家族や弱い人、貧しい人、病人のために働かれた手でした。主イエスの足、それは福音のためガリラヤ、そしてエルサレムを回られた足でした。人々の求めに応じてどこにでも行かれました。主イエスに「来てください」と言って断られた人を知りません。しかしその最後はその手と足に釘を打たれたのです。それはご自身の痛み、苦しみだけではなく、全人類の苦しみ、罪を負われたのです。創世記三章十五節には女の子孫はサタンのかしらを砕き、サタンはその踵を砕くとあります。サタンに砕かれたその踵の痛みはどれ程のものだったのでしょうか。しかしそれによってサタンはかしらを砕かれ、人を罪に閉じ込めておく力を失ったのです。主イエスは私たちに手と足を見るだけでなく、触れてみなさいと言われます。主イエスの苦しみ、喜び、私たちへの愛に触れてみなさいと言われるのです。触れることによってより深く主イエスの苦しみ、喜び、愛を共有することが出来るのです。触れることによって主イエスはもうあなた方を弟子とは呼ばない、兄弟と呼ぼうと言われるのです。そして主イエスと食事をするのです。親しい交わりに入るのです。主イエスは私たちの心からの奉仕を受け入れられのです。
  そしてそうすることによって初めて私たちは主イエスが言われた「まさしくわたしなのだ」という言葉の意味を理解するのです。「まさしくわたしなのだ」は「それは私である」ということであって、ご自身が神であるということです(参照、出エジプト記三章一四節、及びヨハネ八章二四、二八節)。主イエスをよく見、触れ、食事をするなら、主イエスがどのようなお方かが分かります。主イエスが神であることが分かるのです。

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