2002年5月19日日曜日

ロマ書4章13-25節「世界を受け継がせる約束」

第26号

 

   創世記22章1-19

 私たちは命を失うなら地上の全てのものを得ても何もなりません(マタイ一六章二六節)。それでは救いを得るためにはどうしたら良いのか、何をしたら良いのか、と私たちは問います。それに対しパウロはユダヤ人の先祖であるアブラハムの例を持ち出し、「神はアブラハムやその子孫に世界を受け継がせることを約束されたが、その約束は、律法に基づいてではなく、信仰による義に基づいてなされた」と言います。世界を受け継ぐ救いは神の働きであって、そのことを信じることだけが私たちに求められていると言うのです。

 アブラハムはヘブル人でした(創一四章一三節)。ヘブルとは、通常「渡ってきた者」と理解されています。ユーフラテス川、紅海、あるいはヨルダン川を渡って来た者という意味だったのでしょう。別の説ではヘブルの語源はイブリで、ロバ男、ロバ使い、行商人、隊商者であった、そこから汚い、誇りっぽいという意味もあったとあります。そしてアブラハムは「滅びゆく一アラム人」でもありました(申二六章五節)。従ってアブラハムは決して立場の強い有力者ではなく、雑多な無国籍者の一人に過ぎなかったのです。そのようなアブラハムに神の言葉が臨んだのです。そして、その神の言葉に従ってアブラハムはハランを出立しカナンの地に入って行ったのです。神の言葉には力がありました。その言葉を聞いた時、アブラハムは信じ、行動に移したのです。その時、アブラハムは七十五歳、サラは六十五歳でした。しかし子孫を与えるという神の約束の実現はアブラハムが百歳になるまで待たなければなりませんでした。パウロは、老いたアブラハムとサラには新しい生命の誕生を望むすべはなかったにもかかわらず、自らの考えや判断に立たず、「存在していないものを呼び出して存在させる神」を信じたと言います。そしてその信仰がアブラハムの義と認められたのです
  パウロはアブラハムの経験はこれだけではなかったと言います。神はアブラハムに少年となったイサクを焼き尽くす捧げものとして捧げるように求めたからです。神からの声を聞くとアブラハムはイサクを連れモリアに向かいました。アブラハムは、神は「死者に命を与える」ことが出来るお方であると信じていたから、とパウロは言います。事実、イサクを屠ろうとしたまさにその瞬間、神はその大切な独り子をアブラハムに戻しました。神はアブラハムに、イサクの代わりとなる一匹の雄羊を用意されていたのです。アブラハムにとっては死んだイサクが神によって再び命を与えられたことに他なりません。
  彼の生涯におけるこの二つの出来事は、死んだ体から新しい生命であるイサクが生まれたと言うこと、そしてイサクが生きるために身代わりとして雄羊が屠られたと言うことです。アブラハムは「世界を受け継がせる約束」を果たしてくださるためには、どのような時であっても主が必ず助けてくださることを確信したことでしょう。アブラハムはイサクの代わりに雄羊を屠ったその場所を「主は備えてくださる」(The Lord Will Provide :NAS)と名付けています。
  アブラハムの子孫であるユダヤ人たちは主が約束されたように星の数のように増えました。しかし大切なのは、アブラハムと同じ信仰に立つキリスト者もまた神は星の数のように増やしてくださったと言うことです。主の「世界を受け継がせる約束」とアブラハムの「主は備えてくださる」という信仰は、小羊である主イエス・キリストがこの地上に来られることによって成就しました。私たちは主イエスが私たちの命の身代わりで、このお方こそ主が私たちのために備えてくださったのを知るからです。
  旧約聖書はこの主イエスを証します。そして主イエスご自身も生前、死からの甦りを弟子たちに話されました。弟子たちは復活の主に会うことによって、生前主イエスが語られた言葉を信じたのです。私たちの復活もまた理性や常識ではなかなか受け入れられない出来事ですが、主の約束の言葉と復活の主に会うことによって信じられるのです。その私たちを神はアブラハムと同じように義とされるのです。

 パウロは「神は、約束によってアブラハムにその恵みをお与えになった」その「契約を、それから四百三十年後にできた律法が無効にして、その約束を反故にすることはない」と言います(ガラテヤ三章一七、一八節)。事実、「世界を受け継がせる約束」を律法の行いによって得ることが出来るなら、神を讃美する代わりに自分の良い行いを誇る結果となってしまいます。そうではなく神の約束の言葉を信じる者だけが、心から神に栄光と感謝を捧げることが出来るのです。

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