2006年1月15日日曜日

コリント二5章16~21節「新しいものが生じた」

第69号

《元旦礼拝》

 歴史学者エリアーデの「永遠回帰の神話」を読みますと、世界のほとんどの民は、正月を新しい世界の始まりだと考えているのが分かります。日本の古典落語にも大家さんが何とかして店子の家賃を年内に取り立てようとするのがあります。新しい年になれば借金は帳消しになるからです。新しい世界に古い世界の出来事では、舞台は台無しになってしまいます。そのような世界にあって唯一の神を信じたユダヤ人だけが新しい歴史観を持つようになりました。宇宙には初めと終わりがあり、罪に落ちた人を救われる神のご計画があると信じたのです。キリスト教は、主イエスこそ旧約聖書で約束されたメシアであって、主イエスを信じた者には新しい天と新しい地が用意されていると教えるのです。
 神の本質は聖であって、聖は義と愛です。天の父は御子をこの世に遣わされ、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言われました(マタイ三:一七)。父の役割は子を守り、助けることにあります。しかし、人々が御子の顔に唾をし、平手で打ち、鞭で打っても静観されているだけでした。わたしたちであれば自分の子供が悪くても助けようとします。我が子が無実の罪で殺されようとするなら助けずにはいられません。主イエスは父に対して「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫んで息を引き取られました(マタイ二七:四六)。

 聖書では独り子や初子の死には特別な意味があります。列王記下三章にはモアブの王メシャのことが書かれています。モアブは四〇年間イスラエルの王アハブの支配下にあり、十万匹の小羊と雄羊十万匹分の羊毛を貢物として納めていました。メシャはアハブの子ヨラムの治世に反旗を翻しました。イスラエルはユダとエドムと同盟して対抗しました。メシャは勝ち目がないのを知ると世継ぎである長男を城壁の上で生贄として捧げました。イスラエルの上に怒りが下り、状況が一変しました。「新しいものが生じた」のです。モアブはイスラエルのくびきから自由になったのです。
 イスラエルの民はかつてエジプトで奴隷でした。モーセが現われイスラエルを自由の民としましたが、そのためには過越が必要でした。エジプトの民の初子の死によって状況が一変し、「新しいものが生じた」のです。
 アブラハムは百歳になって与えられた独り子イサクを焼き尽くす捧げものにするよう神に命じられました。アブラハムはその言葉に従いました。刃物で息子を屠ろうとしたとき、天から声がありました。「その子に手を下すな。…あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。…」。それによって「地上の諸国民はすべてあなたの子孫(キリスト)によって祝福を得る」との約束が確かなものとされました。「主の山に、備えあり」、「主は備えてくださる」のです。イサクを捧げることにって「新しいものが生じた」のです(創世記二二章、ガラテヤ三:一六)。

 主イエスは十字架にかからなくてもこの世の王となることが出来ました。しかし、それではわたしたちと神との間に和解は生まれません。罪の問題の解決なくして死の解決もありません。死はわたしたちにとって恐ろしいものです。この世と愛する者との別れです。自らの存在が無に帰することでもあります。自然の死ですら恐ろしいのですが、死が神の裁きであるなら、なおさら恐ろしいものとなります。神の前に立ち、生前の行いに応じて裁かれなければならないからです。神との和解とは罪が赦され、神に裁かれない者にされることに他なりません。この和解のために神は御子をこの世に遣わされたのです。主イエスは十字架によりわたしたちの罪を御自分の上に置かれ、御自身を罪ある者とされました。そして罪あるわたしたちが主イエスの十字架の故に罪のない者とされたのです。神の独り子の死によって状況が一変しました。「新しいものが生じた」のです。

 イエスの十字架により、この世界が古いものとされ、わたしたちに新しい天と新しい地が用意されました。そして、その約束の故にわたしたちはこの世においても既に神の国の民とされているのです。
 わたしたちが主イエスの十字架に倣って自分に死ぬとしたら、それは神の初子の死に連なることに他なりません。神に自分自身を捧げることによって「新しいものが生じる」のです(ロマ書六:一~一四参照)。「新しく創造された者」となるのです(2コリント五:一七)。主イエスの命がわたしたちを生かすようになるからです。神を愛し、人を愛するために生きることができるように作り変えられます。後に続く者のために和解の務めを果たすことになるのです。

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