第69号
《元旦礼拝》
歴史学者エリアーデの「永遠回帰の神話」を読みますと、世界のほとんどの民は、正月を新しい世界の始まりだと考えているのが分かります。日本の古典落語にも大家さんが何とかして店子の家賃を年内に取り立てようとするのがあります。新しい年になれば借金は帳消しになるからです。新しい世界に古い世界の出来事では、舞台は台無しになってしまいます。そのような世界にあって唯一の神を信じたユダヤ人だけが新しい歴史観を持つようになりました。宇宙には初めと終わりがあり、罪に落ちた人を救われる神のご計画があると信じたのです。キリスト教は、主イエスこそ旧約聖書で約束されたメシアであって、主イエスを信じた者には新しい天と新しい地が用意されていると教えるのです。神の本質は聖であって、聖は義と愛です。天の父は御子をこの世に遣わされ、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言われました(マタイ三:一七)。父の役割は子を守り、助けることにあります。しかし、人々が御子の顔に唾をし、平手で打ち、鞭で打っても静観されているだけでした。わたしたちであれば自分の子供が悪くても助けようとします。我が子が無実の罪で殺されようとするなら助けずにはいられません。主イエスは父に対して「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫んで息を引き取られました(マタイ二七:四六)。
アブラハムは百歳になって与えられた独り子イサクを焼き尽くす捧げものにするよう神に命じられました。アブラハムはその言葉に従いました。刃物で息子を屠ろうとしたとき、天から声がありました。「その子に手を下すな。…あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。…」。それによって「地上の諸国民はすべてあなたの子孫(キリスト)によって祝福を得る」との約束が確かなものとされました。「主の山に、備えあり」、「主は備えてくださる」のです。イサクを捧げることにって「新しいものが生じた」のです(創世記二二章、ガラテヤ三:一六)。
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