2006年4月16日日曜日

マタイ28章1~10節「あの方は復活された」

第72号

〈イースター礼拝〉

 「あの方は復活された」、これは聖書が伝える最も大切な出来事です。主イエスの復活の事実があったからこそ、わたしたちの復活も確かであると信じることが出来るからです。聖書によれば死は決して自然なことではありませんでした。「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった」のです(創世記一:三一)。そこには、死はありませんでした。しかし、最初の人であるアダムとエバは「決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう」と神が言われた善悪を知る木の果実を食べたのです(二:一七、三:六)。神の言葉に背くことが罪で、罪の結果は死です。御言葉どおりアダムとエバは死ぬ者となりました。彼らの罪によって全ての人は神の栄光を受けられなくなったのです。この世は滅びに向かい、全ての生き物もまた死ぬようになりました。その後、罪の世界を救うために救い主が与えられるという神のご計画は、アダムとエバに伝えられました(三:一五)。そのお言葉どおり、長い年月を経て主イエスは世の罪を取り除くお方としてお生まれになりました(ヨハネ一:二九)。

 主イエスは神が人となられたお方です。人間の母マリアから生まれたが故に、人の心を持ち、人の弱さを知り、罪の誘惑をお受けになられました。しかし、神の子であるが故に少しの罪も犯されませんでした。罪の結果が死であるなら、罪のない主イエスは死ぬことのない存在でもありました。しかし、主イエスはわたしたちの罪を負って十字架につかれ、罪の裁きをお受けになったのです。「わが神わが神、何故わたしをお見捨てになったのですか」という十字架上の叫びは、それがどれほどの苦しみであり、悲しみであったか、わたしたちには想像もつきません(マタイ二七:四六)。神はその独り子をわたしたちの身代わりにされましたが、そこにわたしたちの神に背く罪の深さとわたしたちへの神の愛があります(ヨハネ三:一六)。しかし、死は罪のない主イエスを墓に閉じ込めておくことはできませんでした。三日目に復活して死に打ち勝たれたのです。
 アダムとエバの子孫であるわたしたちは彼らの罪を引き継ぎ、神に背いて生きています。それ故、例外なくわたしたちは死ななければなりません。しかし、復活された主イエスは今も生きて天の父の右に座しておられ、また、霊となってわたしたちの心に宿られるのです(Ⅰコリント一五:四五)。これがペンテコステの時に弟子たちに起こったことでした(使徒二:一~四)。主イエスは生前の約束を今も果たされているのです。それは、わたしはあなたがたをみなしごにはしない。あなた方のところに再び戻って来ると言われていたことでした(ヨハネ一四:一五~三一)。
 律法学者ニコデモは、神の戒めを犯した者は生きることはできない、「もう一度母親の胎内に入って生まれることができるのでしょうか」と言いました。それに対して主イエスは人は霊によって新たに生きることができると言います(ヨハネ三:一~一五)。人は主イエスの霊を心に受けることによってその心は神に反逆している死から神に従順に生きようとする命に変えられるのです。それは主イエスの十字架によって罪なき者とされた恵みによるもので、この世でも、また死んでも復活にあずかることが出来るようにされます。
 わたしたちは回心を経験し、主イエスの霊を心に受けるなら死後の復活を信じることができるようになります。回心も復活も「死」を経験するということで共通しています。

 パウロはわたしたちは死んで眠り続けるのではなく、主イエスの再臨のとき、ラッパの音と共に復活し、今とは異なる状態に変えられる、と言います(Ⅰコリント一五:五二)。そして、わたしたちは、わたしたちのために用意された新しい天と地の住民となるのです(黙示録二〇:一一~二一:八)。
 わたしたちが復活するとき、この体は朽ちるものから朽ちない天的な体に変えられます。卵からひよこが孵るように、種から芽が出るように、そしてさなぎから蝶が生まれるようにです。体だけでなくわたしたちの心も変えられます。この地上にいる間はわたしたちの心には生まれながらの罪があり、その罪と神の霊との間に戦いがあります(ロマ七:一五~二五)。しかし、復活したわたしたちの心には少しの罪もないのです。心と体は新しい天と地で永遠に生きるにふさわしく新しい被造物に変えられるのです。
 「あの方は復活された」。それは死んで霊となられた主イエスが、再びわたしたちの心に宿られることによってわたしたちを永遠の命にふさわしい者とされることに他なりません。それはわたしたちがこの世でも自分ではなく、主イエスによって新しく生きることが出来るようになるためでした。

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