第72号
〈イースター礼拝〉
「あの方は復活された」、これは聖書が伝える最も大切な出来事です。主イエスの復活の事実があったからこそ、わたしたちの復活も確かであると信じることが出来るからです。聖書によれば死は決して自然なことではありませんでした。「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった」のです(創世記一:三一)。そこには、死はありませんでした。しかし、最初の人であるアダムとエバは「決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう」と神が言われた善悪を知る木の果実を食べたのです(二:一七、三:六)。神の言葉に背くことが罪で、罪の結果は死です。御言葉どおりアダムとエバは死ぬ者となりました。彼らの罪によって全ての人は神の栄光を受けられなくなったのです。この世は滅びに向かい、全ての生き物もまた死ぬようになりました。その後、罪の世界を救うために救い主が与えられるという神のご計画は、アダムとエバに伝えられました(三:一五)。そのお言葉どおり、長い年月を経て主イエスは世の罪を取り除くお方としてお生まれになりました(ヨハネ一:二九)。律法学者ニコデモは、神の戒めを犯した者は生きることはできない、「もう一度母親の胎内に入って生まれることができるのでしょうか」と言いました。それに対して主イエスは人は霊によって新たに生きることができると言います(ヨハネ三:一~一五)。人は主イエスの霊を心に受けることによってその心は神に反逆している死から神に従順に生きようとする命に変えられるのです。それは主イエスの十字架によって罪なき者とされた恵みによるもので、この世でも、また死んでも復活にあずかることが出来るようにされます。
わたしたちは回心を経験し、主イエスの霊を心に受けるなら死後の復活を信じることができるようになります。回心も復活も「死」を経験するということで共通しています。
「あの方は復活された」。それは死んで霊となられた主イエスが、再びわたしたちの心に宿られることによってわたしたちを永遠の命にふさわしい者とされることに他なりません。それはわたしたちがこの世でも自分ではなく、主イエスによって新しく生きることが出来るようになるためでした。
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