2007年5月20日日曜日

エフェソ書1章1~4節「聖霊による証印」

第85号

 
 エフェソの信徒への手紙はパウロの獄中書簡の一つです。執筆した場所はローマ、時期は西暦六〇年から六二年と思われます。内容はパウロがそれまで教えてきたことの要約です。
 エフェソは当時、アジアにおける商業、政治の中心でした。港は東と西を結ぶ中継地として栄え、ローマ人やギリシャ人、その他、様々な人種や人々が住んでいました。二万五千人収容できる野外劇場があり、人々は戦車の競争、人と動物との戦いなどを楽しんでいました。しかし、何といってもエフェソといえばアルテミス神殿で知られています。天から下ってきた町の守護神を祭るその神殿は、古代世界の七不思議の一つでした。莫大な金銀が奉納され、その豊かな財源は人々への潤沢な貸付資金となり、巨大銀行となっていました。神殿娼婦も数百人いて、まさに異教的な不道徳で淫らな世界が繰り広げられていました。そのような中に主イエスの福音が伝えられていったのです。

 主イエスの福音は十字架と復活にあります。わたしたちにとって十字架の出来事は信じられても、復活を信じることは極めて困難です。死んだ人が甦ることなど到底信じられないからです。このことは主イエスの弟子たちにとっても同じでした。主イエスが復活された日の早朝、親しい婦人たちが墓から駆け戻って来て「主は復活されました」と告げても、それを信じた弟子たちは一人もいませんでした。彼らは傷心のまま郷里に帰り、以前の仕事に戻っていきました。そのような彼らが信じたのは、復活の主に会い、手と足の釘跡を示され、脇腹の槍の傷を見せられたからでした。それだけでなく主イエスは彼らと一緒に食事をし、聖書を教えられ、生前の言葉を思い起こさせ、神の国について教えられたのです。彼らがエルサレムに戻って来たのは、復活の主イエスの言葉によりました。
 弟子たちは復活の主イエスに出会い、喜びに満たされましたが、尚、ユダヤ人を恐れていました。一部屋に集まり、鍵をかけ、祈りながら主イエスが約束された聖霊を待っていました。
 弟子たちに聖霊が与えられたのはペンテコステの時でした。天に昇られた主イエスは父の御元から約束の聖霊を弟子たちに注がれましたが、それはご自身が霊となり、弟子たちに宿られたということでもあります(一コリ一五:四五)。その時から弟子たちは人々の前に出て、ユダヤ人を恐れることなく、大胆に主イエスを神の子と証し、福音を述べ伝えました。

 主イエスはわたしたちの心に宿られます。しかし、クリスチャンであっても多くの人たちはこの事実を知りません。同じことは当時の人たちにも言えました。説教者アポロは主イエスのことについて熱心に語り、正確に教えていました。しかし、彼はヨハネの洗礼しか知りませんでした。彼がエフェソにも来て大胆に教え始めたとき、会堂で聞いていたプリスキラとアキラは彼の説教には何かが足りないのに気が付きました。そこで彼らはアポロを自分たちの家に招き、この道についてなお正確に教えたのです。(使徒一八:二四~二六)。
 パウロもまたエフェソの信徒たちに御言葉を宣べ伝えたとき、彼らの信仰に何かが欠けているのに気が付き「信仰に入ったとき聖霊を受けましたか」と訊ねています。それに対する彼らの答えは「いいえ、聖霊があるかどうか、聞いたこともありません」というものでした(使徒一九:一~七)。彼らもまたヨハネの洗礼しか知りませんでした。
 聖霊を受けなくても神を信じることはできます。主イエスを十字架につけたファリサイ派の人々や律法学者たちも神を信じていました。わたしたちも聖書を読み、教理問答を学ぶことによってキリスト教の正統的な信仰を持つことはできます。しかし、プリスキラとアキラがアポロの説教を聴いたとき、そしてパウロがエフェソで何人かの信徒から感じたように、聖霊を受けていないクリスチャンと受けたクリスチャンとではどこかが違うのです。
 聖霊は、自分の罪を認め、主イエスに自分の人生を捧げる決心をすることによって神から与えられます。聖霊を受けることによって、初めて実を結ぶ信仰となります(ヨハネ一五参照)。それだけでなく、聖霊はわたしたちを御国の相続人としてくださいます。聖霊は神であり、わたしたちの内に住まわれたそのお方が、わたしたちを永久の神の国へと導くからです。聖霊を受けることなくして御国に入ることはできません。聖霊はわたしたちが御国に入ることのできる証印です。そして、それは神の所有とされ、神が守られることの証印でもあります。聖霊によりわたしたちは他の兄弟姉妹と共に「キリストの体」である教会の部分とされます。そして、頭なる主イエスに導かれ、栄光の体とされ、御国の完成に至るのです。

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