2007年6月17日日曜日

エフェソ書2章11-22節「一人の新しい人」

第86号

 ユダヤ人は選民意識の強い民です。それは、彼らの先祖であるアブラハムに神が現れ、「カナンの地」と「子孫」と「すべての民の祝福の源」になる約束が与えられたからです。アブラハムはその約束を信じ割礼を受けましたが、ユダヤ人もまたその約束を信じ、厳格に割礼を守ってきました。
 ヤコブの時代、七〇人でエジプトに下ったイスラエルの家族は、四三〇年後に二〇〇~三〇〇万の民となりました。約束どおり「子孫」が増えたのです。民はモーセに率いられて荒野から「カナンの地」へと導き入れられました。
 時が満ちて主イエスが生まれましたが、ユダヤ人たちは主イエスを救い主とは認めませんでした。主イエスもまた、イスラエルをローマ帝国のくびきから開放し、神の国をこの地上に築いてほしいという弟子たちや民衆の期待に応えられませんでした。また、ファリサイ派の人たちや律法学者たちの教えるようには律法を守られませんでした。主イエスはご自身を神の子とされましたが、ユダヤ人にとってそれは神を冒涜することでした。彼らは主イエスを十字架につけましたが、三日目に復活されました。そして、ご自身を弟子たちにお示しになり、エルサレムに戻って約束の聖霊を受けるように言われました。
 弟子たちに聖霊が降ったのが、ペンテコステの出来事です。物音に驚いて集まって来た人たちにペトロは大胆に説教しました。人々は大いに心を打たれ「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」と尋ねると、ペトロは「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます」と勧めました(使徒三章参照)。
 主イエスを神と信じる者が増えるにつれ、ユダヤ人の迫害は激しくなりました。ステファノが石で打ち殺されると、使徒たちの他は皆エルサレムの外に散っていきました。彼らの内の何人かは異邦人にも福音を宣べ伝えました。異邦人が福音を受け入れたのを知ると、使徒たちはペトロとヨハネを遣わしました。彼らが手を置くと異邦人もまた聖霊を授かったのです。

 異邦人が主イエスの霊を受けたことはユダヤ人にとって信じられないことでした。異邦人は「キリストとかかわりなく、イスラエルの民に属さず、約束を含む契約と関係なく、この世の中で希望を持たず、神に関係なく生きて」いたからです(一二節)。しかし、主イエスは規則と戒律ずくめの律法を廃棄され、ユダヤ人も異邦人も共に造り変えられる道を開かれ、一つの霊に結ばれて御父に近づくことができるようにされました。
 主イエスの十字架は神と人、ユダヤ人と異邦人、そして人と人とを隔てていたすべての壁を壊しました。かつて、大祭司しか入ることの出来なかった至聖所に、主イエスを信じる者は誰でも入ることが出来るようになりました。至聖所は神の御臨在の場所であって、わたしたちの心の最も奥深い大切な場所となりました。そこに神の霊が宿られるのです。
 エルサレムの神殿にはユダヤ人の他は「異邦人の庭」までしか入ることは許されていませんでした。そこから先は壁で隔てられていました。しかし、その神殿もまた西暦七〇年のユダヤ戦争のときローマ軍によって壊されました。ユダヤ人と異邦人を隔てる壁はなくなったのです。

  聖霊によって主イエスを頭とする一つの民が新しく創られました。それこそ新しいイスラエルの民の誕生であり、教会の始まりでした。このことは預言者たちによって前もって語られていたことでした(エレミヤ書三一:三一以下等)。
 この神の御計画にそって、パウロは異邦人に遣わされる使徒として選ばれました。彼はダマスコ途上で主イエスに出会うまで、キリスト者を迫害していました。パウロにとって、ユダヤ人も異邦人も共に救われるという、この御計画に預かる喜びがどれほど大きかったかは、彼の書いた書簡を見ればよく分かります。パウロはこの使命を果たすために命をかけました。
 「教会」というアブラハムの「子孫」は今や星の数ほど増えました。この子孫には主イエスによって「新しい天と地」が約束されています。これこそ新しい「カナンの地」です(フィリピ三:二〇参照)。ユダヤ人たちはいまだに地上のカナンを約束の地と信じているので、パレスチナの人たちとの争いが続いています。この世の土地に固執しないキリスト者だけが、この地上に「平和」をもたらすことができるのです。
 「すべての民の祝福の源」になることはユダヤ人が今までの歴史で達成することが出来なかったものでした。「一人の新しい人」の群れである「教会」は、主イエスが宿っているが故にこの約束をも成就するのです。

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