今年は日本のプロテスタント宣教一五〇周年ですが、この間、ホーリネス教会の人たちを例外として殉教した信者はいませんでした。一方、韓国では多くのキリスト者が殉教しました。中国でも共産党の独裁の下で多くのクリスチャンが迫害を受けました。韓国ではキリスト者が総人口の三〇パーセント、中国でも五~一〇パーセントを占めていますが、日本は未だに一パーセントに満たないのです。
開国と同時に日本に来た欧米の宣教師たちは極めて優秀な人たちでした。彼らの宣教を受け入れた日本人の多くは武士階級でした。彼らは当時の士農工商に分けられた社会の最上位に属するエリート層で、人口の五パーセントを占めていました。そのためか教会は教えを学ぶところとなり、より救いを必要とする弱く、貧しい層への伝道の場になりにくかったのではないでしょうか。キリスト教が日本に初めて伝来した織田信長や豊臣秀吉の時代のカトリックの布教と異なっていたと思うのです。多くの人が殉教しましたが、信徒数は人口の二~三パーセントに達したからです。
モーセに率いられてエジプトを出たイスラエルの民はシナイ山で神から律法を授けられました。律法は約束の地で神の民として生きるに相応しい憲法であり倫理基準でした。しかし、民は律法を守って生きることはできませんでした。これらのことはわたしたちによい行いや宗教的儀式によっては、救われないことを教えます。ユダヤ人であろうと異邦人であろうとわたしたちは誰一人、神の審きの前に立つことはできません。このようなわたしたちを救うために天の父はご自身の独り子をこの世に遣わされました。しかし、律法を民に教え、自ら厳格に守って生きてきた律法学者やファリサイ派の人たち、また、神殿で仕えてきた大祭司たちがこのお方を十字架に掛けて殺してしまいました。
十字架の出来事こそ、古いものが滅び新しいものにとって代わることの真の意味です。主イエスは、ご自身の血で人々の罪を贖われました。その罪を認め、主イエスを神と信じる時、わたしたちの内に神の霊が宿ります。この霊によってわたしたちは古い自分に死に、主イエスが代わって生きるようになるのです。それはわたしたちが新しく創造されるということです。主イエスが王として支配する神の国は、このような民によってもう既にこの世で始まっているのです。この民が「来るべき都」の住民となるのです。「来るべき都」こそ、ヘブライ人への手紙の主題です(参照、二章五節、六章五節)。この世は滅びます。滅んだ後に、新しい「永続する都」が天から下ってくるのです。
クオ・ヴァディスではペトロはアッピア街道で主イエスに出会い、ローマに戻りました。そこで十字架刑に処せられると聞いて「主と同じだ。十字架で死ぬことができる」と喜ぶのです。殉教はその人がどのように確信していたかを教えます。そのためその死は多くの人に命をもたらすことになるのです。
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