2010年4月18日日曜日

マルコ16章1-8節「驚くことはない」

第120号

〈イースター礼拝〉
 復活は、主イエスが経験された三つの裁きの後に起こった出来事でした。最初の裁きは最高法院で、ユダヤ人指導者たちが主イエスを死刑に決議したことでした。二つ目は、ローマのユダヤ総督ピラトがユダヤ人の求めに応じて主イエスを十字架刑にしたことでした。そして最後は、神が十字架に付けられた主イエスを罪人として裁かれたことでした。そのため、主イエスは、「わが神、わが神、なぜ、わたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれたのです。(同、一五章三四節)。しかし、神は十字架で死んだ主イエスを三日目に黄泉から復活させました。
 最初の裁きの時、「弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げて」行きました(マルコ一四章五〇節)。このことは、主イエスは神の民であるユダヤ人全てに見捨てられたことを意味します。また、第二の裁きではピラトは「祭司長たちがイエスを引き渡したのは、ねたみのためだと分かって」いましたが、ユダヤ人たちを満足させるために十字架につけました(同一五章一五節)。このことは全ての異邦人もまた、主イエスを見捨てたことを意味します。主イエスは罪がないのにも拘らず、神と人から有罪と宣告されました。最初の二つは人の裁き、後のは神の裁きで、いずれも「捨てられる」と言う言葉で括ることができます。神の裁きと復活はわたしたちの預かり知らぬところで起こりましたが、このことを信じるかどうかは、わたしたちに委ねられています。神は十字架の裁きと主イエスの復活を信じる者を救われ、信じない者を裁かれるのです。

 十字架は主イエスにとって大きな苦しみでした。冤罪とは、無実でありながら有罪と裁かれることで、そのため被告人は非常に苦しむことになります。主イエスの場合は、無罪であっただけでなく、自らの意志で人類の全ての罪を負われました。それが天の父の御心だからでした。
 わたしたちの罪とは「光」がこの世に来られたのにそのお方を理解しなかったことです(ヨハネ一章五、一〇~一一節)。弟子たちは主イエスがユダヤ人をローマの頸木から解放し、この地上に神の国をもたらすお方であると信じていました。彼らは主イエスのなされた様々な「しるし」を見ました。それは荒れ狂うガリラヤの海を一言で凪にするという自然を支配する力であり、生まれつき目の見えない人の目を開けるという癒しの力でもありました。彼らは主イエスがその力を用いてエルサレムをローマから解放すると信じていたのです。彼らはその暁には誰が主イエスの右に、そして左に座って権力を行使するかを論じていました(マタイ二〇章二〇~二八節)。しかし、主イエスはゲッセマネで無抵抗のまま捕らえられ、無言で裁きの座に座り、十字架を負って刑場まで歩かれました。頭や顔を棒や平手で叩かれ、顔に唾をかけられて侮辱を受けられました。弟子たちの夢、希望、理想は十字架で砕かれたのです。
 今日でも主イエスを政治的改革者と見做したり、平和や差別、貧困、弱者のために闘う社会改革者、また、わたしたちが生きるに必要な愛の実践者、道徳の教師として見る多くの人がいます。もし、主イエスがそのようなお方であるなら十字架につけられることはなかったでしょう。
 主イエスを知るためには、十字架のところに行かなければなりません。なぜなら、そこにわたしたち人間が誰一人として従うことのできない弱さ、低さ、貧しさがあり、神の御心に従う主イエスの苦難があるからです。そして、そこに主イエスがなされたどの「しるし」にも勝る、神の力が隠されているからです。

 主イエスはかつてサマリアの女に、あなたがた異邦人は「知らないものを礼拝している」と言われ、ユダヤ人には「知っているものを礼拝している」と言われました。それは「救いはユダヤ人から来るから」でした。しかし、ユダヤ人はこのお方をメシアと認めることはできませんでした。ペトロも三度主イエスを否みました。自分が罪人であることも、主イエスが「世の罪を取り除く神の子羊」であることも分かりませんでした(ヨハネ一章二九節)。それは全ての人の目に隠されていたのです。
 復活した主イエスは、弟子たちに四〇日に亘って聖書全体(旧約)が御自身について書かれていることを説明されました(ルカ二四章二七節)。
 主イエスの十字架と復活だけが、わたしたち人間の罪を顕わにします。罪のない人は一人としていません。その罪を主イエスは御自身で担われました。神はその罪人を黄泉から甦らせました。主イエスは今も生きておられ、この二千年前のこの出来事にわたしたちの救いがあるのを教えるのです。罪人であるわたしたちが、この主イエスを信じることにより、復活の希望に預かることができるのです。

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