第120号
〈イースター礼拝〉
復活は、主イエスが経験された三つの裁きの後に起こった出来事でした。最初の裁きは最高法院で、ユダヤ人指導者たちが主イエスを死刑に決議したことでした。二つ目は、ローマのユダヤ総督ピラトがユダヤ人の求めに応じて主イエスを十字架刑にしたことでした。そして最後は、神が十字架に付けられた主イエスを罪人として裁かれたことでした。そのため、主イエスは、「わが神、わが神、なぜ、わたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれたのです。(同、一五章三四節)。しかし、神は十字架で死んだ主イエスを三日目に黄泉から復活させました。最初の裁きの時、「弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げて」行きました(マルコ一四章五〇節)。このことは、主イエスは神の民であるユダヤ人全てに見捨てられたことを意味します。また、第二の裁きではピラトは「祭司長たちがイエスを引き渡したのは、ねたみのためだと分かって」いましたが、ユダヤ人たちを満足させるために十字架につけました(同一五章一五節)。このことは全ての異邦人もまた、主イエスを見捨てたことを意味します。主イエスは罪がないのにも拘らず、神と人から有罪と宣告されました。最初の二つは人の裁き、後のは神の裁きで、いずれも「捨てられる」と言う言葉で括ることができます。神の裁きと復活はわたしたちの預かり知らぬところで起こりましたが、このことを信じるかどうかは、わたしたちに委ねられています。神は十字架の裁きと主イエスの復活を信じる者を救われ、信じない者を裁かれるのです。
今日でも主イエスを政治的改革者と見做したり、平和や差別、貧困、弱者のために闘う社会改革者、また、わたしたちが生きるに必要な愛の実践者、道徳の教師として見る多くの人がいます。もし、主イエスがそのようなお方であるなら十字架につけられることはなかったでしょう。
主イエスを知るためには、十字架のところに行かなければなりません。なぜなら、そこにわたしたち人間が誰一人として従うことのできない弱さ、低さ、貧しさがあり、神の御心に従う主イエスの苦難があるからです。そして、そこに主イエスがなされたどの「しるし」にも勝る、神の力が隠されているからです。
主イエスの十字架と復活だけが、わたしたち人間の罪を顕わにします。罪のない人は一人としていません。その罪を主イエスは御自身で担われました。神はその罪人を黄泉から甦らせました。主イエスは今も生きておられ、この二千年前のこの出来事にわたしたちの救いがあるのを教えるのです。罪人であるわたしたちが、この主イエスを信じることにより、復活の希望に預かることができるのです。
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