2010年5月16日日曜日

ヨハネ一3章11-18節「命を捨ててくださいました」

第121号

わたしたちの救いは神の御手に委ねられています。救われていない人は生まれたままの状態にある人で、聖書では「肉の人」などと言われています(ロマ書七章一四節)。救われた人は主イエスに会って変えられた人で、「新しく創られた者」、「神の子」などと言われています(二コリント五章一七節、ロマ書八章一五節)。両者の違いは、御子から油を注がれたかどうかによるものです(二章二〇節、二七節)。神から聖霊を注がれた人は神から生まれた人となります(二章二九節、三章九節)。
 わたしたちがこの聖霊を受けるのは聖書の知識でも、自分の意志や、良い行いによるものでもありません。それは神からの一方的な恵みとして与えられるのです(ヨハネ一四章、ロマ書九章など参照)。
 自分が信じて救われるのではなく、神が御自身の意志で人を救うのは、納得がいかないという人がいるかもしれません。しかし、人は救われて初めて神がどのようなお方かを知るのです。知らずに信じることはできません。同じことは愛についても言えます。わたしたちの知っている愛は生まれつきのものであって、人類愛、隣人愛、兄弟愛、家族愛、自己愛といったものです。しかし、それは聖書の教える愛とは異なります。わたしたちは主イエスに会って心が変わらない限り神の愛は分かりません。

 ヨハネはわたしたちに「互いに愛し合うこと」を勧め、「カインのようになってはなりません」と言います。カインは弟のアベルを殺しました。それは、主がアベルとその捧げ物に目を留められ、自分とその捧げ物には目を留められなかったからでした。わたしたちは、カインは人を殺したために悪い者となったと考えますが、聖書は、カインは悪い者に属していたので弟を殺したと言います。心の中で兄弟を妬み、憎むなら、もうすでに人を殺しているのです(マタイ五章二一~二六節)。そのような者はすべて死にとどまったままで、永遠の命がとどまっていません(一四節、一五節)。

  旧約聖書には、神はアブラハムと契約を結ばれたことが書かれています。神はアブラハムに誓って、土地、子孫、祝福を与えると約束されました。そして、その契約の「しるし」として割礼が求められました。割礼という「しるし」のない者は神の約束を信じないが故にイスラエルの民から滅ぼされるのです(創世記一七章一一節、一四節)。
 エレミヤ書では時が来れば、この肉の割礼は心の割礼に変わることが預言されています(エレミヤ三一章三一節)。
 エゼキエル書九章には神は偶像を礼拝したイスラエルの民を滅ぼされたことが書かれています。しかし、民の中で偶像礼拝を避け、身を清く保っていた者には「しるし」が与えられ、滅ぼされることのないようにされました。
 神を信じるとは単に主イエスが神であると信じることではありません。もしそれだけのことであるならサタンですら主イエスが神の子であることは知っているのです。主イエスを信じるとは神への罪の悔い改めがなければなりません。それに対して神が赦されるのです。赦された「しるし」として聖霊が与えられるのです。聖霊はわたしたちが滅びから救われ、永遠の命を保証するものです。
 聖霊を受けることによってわたしたちの心は変えられます。それまでは自分が自分の主人でした。しかしそれからは神御自身がわたしたちを支配されるのです。新しく生まれた人は神に属しているがゆえに正しい生活をし、兄弟を愛するようになります。

  主イエスはわたしたちがまだ罪人であったときに、わたしたちのために御自身の「命を捨ててくださいました」。十字架上で「わが神わが神なぜ、わたしをお見捨てになったのですか」、「父よ、彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか分からないのです」と叫ばれました。このようにして主イエスはわたしたちの罪の身代わりとなられました。それを知ってはじめて神のわたしたちへの愛が分かります。この愛がなければわたしたちは自分の罪のゆえに裁かれ、滅びなければなりませんでした。わたしたち自身が罪赦された者であるなら、もはや人を裁くことも憎むこともできません。
 この世は主イエスを憎み、十字架に付けました。それは救いが人間の意志や行いによるものではなく、主イエスにあるのを認めたくなかったからです。同じようにこの世は、主イエスを信じる者も憎みます。カインはなぜアベルを殺したのでしょうか。それは自分とその捧げ物を退け、弟とその捧げ物を受け入れられたのが神だからでした。神に顧みられたアベルとその捧げ物を憎んだのです。しかし、神はそのカインを救うためにも十字架で御自身の命を捨ててくださったのです。主イエスは御自身を信じるなら、例えその人がどのような者であっても全て救われるのです。

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