2010年10月17日日曜日

創世記26章23-25節「わが僕アブラハムのゆえに」

第126号

 
 「イサクは更に、そこからベエル・シェバに上」りました。母のサラは亡くなって既に久しく、父アブラハムもまた地上の人ではありませんでした。神はアブラハムを祝福されましたが、イサクも祝福され、彼は「豊かになり、ますます富み栄えて、多くの羊や牛の群れ、それに多くの召し使いを持つように」なっていました。
 ベエル・シェバ、それはイサクにとって忘れられない所でした。神はそこに滞在していたアブラハムに、モリアの地に行って独り子イサクを焼き尽くす献げ物としてささげるように求められた所だったからです。モリアの地とは後のエルサレムでソロモン王が神殿を建て、主イエスが十字架に付けられた所でした。

 アブラハムにとってイサクは特別な存在でした。神から約束された子で、百歳になってから与えられた子でした。その名は「笑い」で、子のなかったサラとの間に笑いの源となったのです。二人はイサクの乳離れの日に盛大な宴会を開きました。また、二人はイシマエルを家から出しました。サラにとってエジプトの女ハガルの子は、自分の子とアブラハムの財産を分け合う相手ではありませんでした。これほどまでにイサクを愛していたにもかかわらず、父アブラハムは神の言葉を聞くと、躊躇せずイサクを連れて出立したのです。
 不思議なことにアブラハムは理不尽な要求をした神に反抗したり、苦しんだり、取り乱したりしたようには思えないのです。アブラハムはイサクを与えてくださったのは神であることを知っていました。目に入れても痛くないほど愛していてもイサクは神のものでした。神は自分を愛しているが故にイサクを与えてくれたのであって、その愛をないがしろにはできませんでした。しかし、それ以上にアブラハムは「神が人を死者の中から生き返らせることもお出来になる」ことを信じていたのです(ヘブライ一一:一九)。
 イサクは父が小羊を連れていないのが不思議でした。父はこれまでにも祭壇を築き、小羊をささげていたからです。イサクが「小羊はどこにいるのですか」と尋ねるとアブラハムは「神が備えてくださる」と答えました。人を死から贖うことのできるお方を信じていたのです。
 モリアの地に着くとアブラハムはためらうことなくイサクを屠ろうとしました。それまで優しかった父親が刃物で自分を殺そうとしたのです。その時のイサクの気持ちはどうだったでしょうか。逃げる、暴れる、泣くといったことはしなかったように思われます。小羊のようにされるままだったのでしょう。イサクがべエル・シエバに上るということは、その時のことを思い起こすことでした。
 その夜、主がイサクに現れました。「わたしは、あなたの父アブラハムの神である」。イサクはあの時、自分を屠ろうとしたのは父ではなく、神であったことをよく知っていました。神は身代わりの雄羊を用意されていたのです。そして神は「恐れてはならない」と言われました。神は人の生き死にを決めることのできる権威あるお方でした。そのお方が「わたしはあなたと共にいる」と言われたのです。イサクはその言葉にどれ程勇気づけられたか知れません。主はイサクに父アブラハムと同じ約束を与え「わたしはあなたを祝福し、子孫を増やす」と言われました。父の信仰が子に継承されたのです。

 わたしたちは神が存在することを信じることはできても、神が御自身を顕現されない限りどのようなお方であるかを知ることはできません。神はこれらの約束をイサクに与え「わが僕アブラハムのゆえに」と言われました。約束、そして愛も同じですが、それらは関係性によって初めて成り立ちます。神はアブラハムを愛し、イサクを与えました。その神にアブラハムはイサクをささげました。神はそのアブラハムに応えて御自身の独り子をわたしたちに与えられたのです。そのお方こそ主イエスでした。
 父アブラハムが祭壇を築いたように、イサクもまた祭壇を築きました。イサクは父アブラハムの神を信じ「その御名を呼んで礼拝した」のです。それによってイサクもまた「更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望していた」のを知るのです。
 祭壇を築くこととわたしたちの礼拝とは同じです。イサクはそこに天幕を張り、留まりました。わたしたちも教会にしばし留まり御名を呼ぶのです。イサクの僕たちは井戸を掘りましたが、わたしたちもまたそこから命の水を飲むのです。
 アブラハムもイサクもわたしたちと同じように主イエスを見ていたのです(ヨハネ八:五六)。それはこれから来るお方として見るか、既に来られたお方として見るかの違いです。神は「わが僕アブラハムのゆえに」わたしたちを愛して十字架という祭壇に独り子をささげました。そのことを知って、わたしたちもまたこの神の愛に応えるのです。

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