2012年7月15日日曜日

使徒4章1-22節「救われるべき名は」

第147号

 祭司たち、神殿守衛長、サドカイ派の人たちは使徒ペトロの説教をいらだちながら聞いていました。無学な者が神殿で人々に教えていたからです。しかも自分たちが十字架に付けた主イエスが復活したというのです。しかし、五千人も信じたため放置できず、二人を捕らえ牢に入れました。
 翌朝、議会が開かれました。議員の多くはサドカイ派である大祭司一族でした。彼らは使徒たちを真中に立たせ、「何の権威によって…ああいうことをしたのか」と尋ねました。ペトロとヨハネが神殿の門のそばに置かれていた生まれつき足の不自由な男を癒し、それに驚いて集まって来た人たちに話をしたからです。「ペトロは聖霊に満たされて」弁明を始めました。この男が癒されたのは自分たちや男の信仰によるのではなく、主イエスの名によるのである。あなた方はこの方を十字架に付けて殺したが、三日目に甦り、天に昇り、父なる神の右に座し、今も生きて全てを支配している。そして詩篇一一八篇二二節を引用し、この主イエスによってイスラエルの「家」は建てられなければならないと答えました。

サドカイ派の人たちは、人は復活することはないと教えていました。しかし、彼らは主イエスの名によって癒された男を前に反論することが出来ませんでした。彼らに出来たのは二度と主イエスの名によって語ってはならないと脅かすことだけでした。しかし「神に従わないであなたがたに従うことが、神の前に正しいかどうか、考えてください」と言われ、ますます立場を悪くしました。それでも更に脅かし、釈放するしかありませんでした。これは使徒たちが受けた最初の迫害でしたが、主イエスも同じように裁判を受けられ、十字架に付けられたのです。

  大祭司たちの持つ本来の役割は、神殿で民の罪の赦しのために祭儀を行うことでした。しかし、この務めはイスラエルの長い歴史の中で、民を支配する権威に変わり、そのため、他のいかなる権威も認めることが出来なくなっていたのです。議員たちは自分たちが殺した主イエスが神であると信じることは出来ませんでした。この世の権威は人を殺し、神の権威は人を生かします。神の他、誰が生まれつき足の不自由な男を癒し、歩けるように出来るでしょうか。
 実はペトロも主イエスを神とは信じていませんでした。主イエスが十字架に付けられるため議会で裁かれていた時、「そんな人は知らない」と三度も否みました。三度目は何と呪いの言葉さえ口にしながら誓って言ったのです(マタイ二六章七四節)。
 ペトロだけでなく全ての人は主イエスが神であると認めることは出来ません。それがわたしたちの持って生まれた原罪なのです。人間の罪はわたしたちの造り主である神を神として礼拝できないことにあります。
 主イエスを神と信じることが出来るように変えられるのは、生ける主イエスとの出会いによります。使徒たちは復活の主イエスに出会い、五旬祭の日に聖霊を受け、新しい人になりました。わたしたちも同じです。自分の努力や信仰ではなく、神の側からの働き掛けがなければ決して変わることはなく、信じることは出来ません。
 わたしたちが信じられるのは復活の主イエスに出会ったからで、このことなくして主イエスが「しるし」を行ったことを信じることは出来ません。「しるし」は主イエスがどのようなお方であるかをわたしたちに教えるのであって、奇跡だけでは主イエスが神であることに結び付くことはありません。ペトロの説教で人々が信じたのはあくまで聖霊の働きによるもので、主イエスの臨在をはっきりと感じ、その男が癒されたのはこの方によると知らされたからです。その時、自分たちが主イエスを十字架に付けたその罪に気が付き回心したのです。
 繰り返しますが、主イエスがご自身をわたしたちに啓示されない限りわたしたちは信じることが出来ません。主イエスがなされたしるしを見て主イエスを神と信じるわけではありません。

 神を信じるということは、わたしたちへの主イエスの主権を信じるということに尽きます。主イエスは生前、生まれつき目が見えない人の目を見えるようにされ、死者を復活させ、ガリラヤ湖の荒れる波風も一言で鎮められました。これらの奇跡は御自身が神であることをわたしたちに教える「しるし」でした。そしてその最後の「しるし」は御自身の復活でした。
 今の時代、ペトロのしたような奇跡を見ることは出来ません。わたしたちに与えられている聖霊と聖書の御言葉こそが「しるし」だからです。わたしたちに与えられている「救われるべき名は」主イエスだけで、その名によって聖霊を受けるのです。聖霊こそがわたしたちの信仰と救いになくてはならない神からの賜物なのです。

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