2013年10月20日日曜日

ペトロの手紙4章7-11節「神が栄光をお受けになる」

第162号

 この手紙の書かれた目的は「苦難」に耐えるにはどのようにしたらよいのかを教えることです。苦難は主が与えられる、あるいは少なくとも主がお許しにならない限りわたしたちの身に及ぶことはありません。わたしたちは、以前は苦難を自分の視点からしか考えることが出来ませんでした。しかし主イエスを信じることにより神の視点から見ることが出来るようになるのです。それによって全ては人間が主体ではなく神が主体であることを知り、自分が満足する生き方ではなく、神の栄光を求め、時が良くても悪くても神を賛美し、御言葉を述べ伝えることを求めるようになります。
  このように変えられていく最初の出発点は主イエスとの出会いです。それは十字架につけられたはずの主イエスが今も生きておられ、全てを支配されていることを知る霊的な体験です。しかしこのことは決して個人的な救いの出来事としてだけで捉えることは出来ません。それよりもっと大切な意味があるのです。それは「神の国」の民の一員に加えられるということで、主イエスはその国の王であるという事実に目が開かれることです。聖書はその視点から書かれているのです。

 エジプトで奴隷であったイスラエルの民を導き出した預言者モーセは、四〇歳までは自分の頭で神を理解する極めて人間的な信仰だったと思われます(使徒言行録七章二三節参照)。そのため、彼は自分の行いによってイスラエルの民を救おうとしましたが失敗に終わりました。ミディアンの地に逃げたモーセは八〇歳まで義理の父の羊を飼い、妻と子供を養いました。その間、人の生きる意味と忍耐を学んだのではないでしょうか(創世記三章一七~一九節)。このような生活は生ける神と出会うことによって変えられました。その後の四〇年は荒野を旅する共同体の指導者として神が約束された土地に民を導くために神と共に歩む生涯となりました。それは主にある信仰者としての苦難を知るということでもありました。
  奴隷は神を礼拝できません。エジプトで働くイスラエルの民に神を礼拝する自由はありませんでした。しかし、奴隷の頸木を逃れて出て行った荒野には、水も食べ物もありませんでした。民はエジプトでの肉鍋を囲んだ楽しい家族団欒の時を思い出し、不平を言いました。しかしそのような生活を通してイスラエルの民の信仰は強くされ、戦うことが出来るようになりました。
  モーセの生涯を見るまでもなく、歴史は神によってつくられます。神はモーセだけでなくアブラハムダビデなど多くの預言者を通して、イスラエルの民に救い主(メシア)が生まれることを約束されました。主イエスはその約束の成就でした。主イエスはわたしたち全ての人の罪を背負って十字架につけられました。そして三日目に甦られました。死は罪のない主イエスを墓に閉じ込めておくことは出来なかったのです。同じように、主イエスによって罪が贖われたわたしたちもまた復活に預かるのです。主イエスの復活はそのようなわたしたちの初穂となられたのです。復活された主イエスは、御自身の再臨を約束された後、弟子たちの前で天に上られました。主イエスが再びこの地に来られる時に神の国が生まれるのです。
「万物の終わりが迫って」いる、それは今の時を指しています。この世はわたしたちの努力によって良くなるのではなく、主イエスと一緒に働くことによってでもありません。主イエス御自身によって今とは違う全く新しい世界が生まれるのです。
 ペトロはわたしたちに、この終末の時をどのように生きたら良いのかを教えます。それは「心を込めて愛し合いなさい」ということで、「もてなし合いなさい」ということでもあります。旅人をもてなす、それはこの手紙を受け取る貧しい教会員に負担を強いることでもありました。また、見ず知らずの人を泊めることによって問題も起こったはずです。そうであってもペトロは、「不平を言わずに」そうしなさいと言うのです。それが愛の実践でした。教会という主イエスの共同体において愛以外に借りがあってはならないからです。「愛は多くの罪を覆う」のです。
  わたしたちは自分の力や経験で主イエスを知ることは出来ません。主イエスを知ったのは聖霊によるものでした。この上からの力は様々な奉仕の賜物であって、それによって教会という共同体を主イエスは御自身の御心のままに生かすのです。自分の力で教会に貢献できるのであればわたしたちは自分を誇ることが出来ます。しかし、全てが主イエスから出たのであれば、わたしたちに出来るのは神を賛美することだけです。「イエス・キリストを通して神が栄光をお受けになる」のであって、これがわたしたちの「アーメン」であり、教会の目的です。

0 件のコメント:

コメントを投稿