2000年7月16日日曜日

ルカ16章19-31節「ある金持ちと貧しい人」

月報 第4号

 聖書の中では金持ちと貧しいラザロの話はよく知られています。金持ちと貧しいラザロが対照して描かれ、金持ちのどこが問題だったかがよく分かります。
 この世において金持ちと貧しい人の生活の差は衣食住にあると言えるのではないでしょうか。この金持ちの家の門構えは立派で、紫の衣を身に付け、町の指導者を招いては贅沢な食事をしていました。貧しいラザロはその金持ちの門前に置かれていました。体が不自由で働くことはおろか歩くことも出来ませんでした。宗教的に汚れているとされる犬がやって来て全身のおできをなめても追い払うことも出来ませんでした。このできものは相当の痛みがあったと思われます。その上、いつも空腹に苦しんでいました。
 金持ちは門前にいるラザロを知っていましたが無視していました。この金持ちは富や地位、名誉、家族が多いことなどは神からの祝福であると信じていました。反対にラザロのように貧しい人は罪深い者とみなしていました。従ってこの金持ちにとってラザロのような者とは関わり合いを持つ必要はなかったのです。

人は誰でも死にますが、この二人にもその時が来ました。この金持ちが死ぬと盛大な葬儀が行われ、家族と共に町の名士や有力者がやって来てその死を惜しみ、嘆き悲しみました。それに対しラザロが死んだときはどうだったでしょう。誰もラザロの死を惜しみません。悲しむ人もいません。葬儀もなくすぐに墓に入れられました。しかし、死ぬや否や天使たちが現われラザロを宴席にいるアブラハムのすぐそばに運んだのです。アブラハムのすぐそばに行くことが出来た、それはユダヤ人にとってこの上もなく名誉なことでした。またこれほど安全な場所はないと考えられていました。金持ちはどうだったでしょう。黄泉に送られ肉体的、精神的に苦しむことになったのです。その苦しみは生きているときのラザロのとは比較になりません。しかもラザロの苦しみは死で終わりましたが、この金持ちの苦しみは永遠に続くのです。反対にラザロは金持ちが生きているときに楽しんだのとは比較にならないほどの喜びで慰められたのです。しかもそれは死で終わることがないのです。
 金持ちはこの苦しみと炎火のなかでラザロを自分のところに遣わして指をぬらし、舌を冷やして欲しいとアブラハムに頼みました。しかしアブラハムの答は、二人の間には大きな淵があって越えることが出来ないというものでした。生前ラザロに対して少しの同情を見せなかった金持ちは、ここでは逆になり少しの同情も与えられなかったのです。

 金持ちは死んで初めて自分の生前の生き方を反省し、悔い改めましたが、遅すぎたのです。死んでからでも助けてくれると教えられ、頼りにしていたアブラハムは姿が見えるにもかかわらず力になってくれませんでした。悔い改めは生きているときにしなければならなかったのです。悔い改め、それは人格を持った生ける神を信じることにほかなりません。神は愛と正義と公平を私たちが行うことを求められるのです。それが神御自身の性格だからです。従ってこの神を信じることは自分中心の生活を改めることにほかなりません。「下着を二枚もっている者は、持たない者に分けてやりなさい」と聖書は私たちに命じます(三章十一節)。
 しかし金持ちは言います。生きているとき聖書をいくら読んでもそのように信じて悔い改めることは出来ませんでした、ラザロを甦らせて遣わして下さい、自分中心の生活がどのような結果になるかを甦った彼が証すれば人々は、自分の兄弟は驚いてその生活を悔い改めるでしょうと。それに対するアブラハムの答えは聖書を信じないのなら死人が甦って話をしても信じない、というものでした。

  この金持ちは、自分は生まれてきてよかった、と思っていました。反対にラザロは生まれて来なければよかったと思っていたでしょう。しかし、結果は逆になってしまいました。なぜなのでしょう。金持ちであることが問題ではありません。問題は富を全て自分のために使ってしまったということにあるのではないでしょうか。多くの富を与えられればそれだけ私たちはその富を有効に使わなければならない責任も生まれます。与えられた富や権威、権力は自分のためではなく人のために、貧しい人のために分かち合わなければなりません。社会において愛と正義、公平を実践することが求められているのです。神の戒めに従い、貧しい人への同情が求められているのです。
 この金持ちの生き方に、モーセと預言者の教えを受け入れ実行に移す信仰がなかったことが問題とされるのです。自分中心を悔い改めることのなかったその信仰が問題とされるのです。

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