2000年6月18日日曜日

ルカ24章36-53節「高いところからの力」

月報 第3号

 主イエスは十字架の上で息を引き取り、墓に納められました。弟子たちの衝撃はどれほどのものだったでしょう。何故なら当時ユダヤはローマの植民地でその支配下にあったので、この主イエスが祖国を救い、神の国として統治するために神から遣わされた救い主、メシアであると弟子たちは信じていたからです。この神の国は近隣諸国そしてついには世界の果てにまで及び、自分たちもまた主イエスの下で右大臣、左大臣になってこの国を統治すると信じていました。しかしこのような彼らの極めて人間的で野心的な夢は、主イエスの突然の死と共に砕けてしまったのです。それだけでなく弟子たちは主イエスが捕らえられたとき、主イエスのところにとどまることが出来ず、見捨てて逃げてしまいました。主イエスの愛と御業を想うたび自分たちは何ということをして主を裏切ってしまったのかと苦しんだに違いありません。
 十字架の出来事の後の三日目、朝早く遺体に香料と香油を塗るために墓に行った女性たちが驚いて帰って来て、墓が空であったことを弟子たちに告げました。その時、ある者は甦った主イエスにお会いしたと言ったのです。また、エルサレムを離れようとしていた弟子たちも戻って来て、甦った主イエスにお会いしたと弟子たちに伝えました。

このようなことを話している弟子たちの真ん中に主イエスは立たれました。亡霊を見ているのだと恐れおののいている彼らに主イエスは十字架に釘付けされた手足の傷痕をお示しになり、見るように、そして触れてみるようにと言われ、なお疑う弟子たちの目の前で魚を食べ、御自身が霊ではない事を示されました。確かに甦られた主イエスは生前の主とはどこか違っていました。しかし紛れもなく甦られたのです。そしてモーセの律法と預言者の書と詩編、すなわち旧約聖書をひも解いて彼らの心の目を開かれ、メシアについてのそれまでの誤った考えを正されたのです。

このようにして弟子たちは伝道するに十分な体験と知識を授けられましたが、主イエスは彼らをすぐには伝道に派遣されませんでした。「高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい」(四十九節)と言われたのです。ヨハネによる福音書十四章で主イエスは弟子たちに自分が復活し天にあげられ、父の御許に行ったならあなたがたに助け主を送ろうと約束しておられます。この助け主こそ高い所からの力で、神の霊、キリストの霊です。私たち人間の先祖であるアダムとエバはこの霊を持ち、神との交わりがあったことが創世記のはじめに書かれています。しかしヘビ、すなわちサタンの誘惑に会ったとき彼らは罪を犯し、彼らを覆っていた神の霊が離れ、彼らは自分たちが裸なのに気がつきました。そしてその時から人間の知性は神を正しく認めることが出来なくなり、この世の事柄だけに限られてしまったのです。しかし、高い所からの力を与えられることにより私たちの知性は再び神に対して目が開かれ、神の愛を知るのです。神の愛を知って感情も神への愛に満たされるようになり、意志もまたその愛に動かされ喜んで神に従おうとするようになるのです。このときはじめて「あなたがたはこれらのことの証人となる」(四十八節)のです。高い所からの力に覆われない限り、どれほど聖書を読み、また教理を学んでも結局人の考えで主イエスに従うその限界を突き破ることは出来ません。伝道は私たちの内に住まわれた主イエスが私たちを通してなされる神の業であって、人の力ですることは出来ないのです。
 「わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る」(四十八節)と主イエスは言われました。この高い所からの力はあくまで贈りものであって、自分の知識や働きや努力の結果得られるものではありません。弟子たちに出来ることは主イエスの言われた通り、約束のものが与えられるまでその場所、エルサレムにとどまって祈ることでした。このような弟子たちに聖霊が降ったその出来事が使徒行伝二章一節以下に書かれています。激しい風が吹いて来るような激しい音と共に炎のような舌が現れ、弟子たち一人一人の上にとどまったのです。聖霊を受けた弟子たちはすぐさま伝道を開始し、神の偉大な業を語り始めました。「メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる」(四十八、四十九節)と書かれていることの始まりです。そしてこの日、すなわち聖霊降臨日(ペンテコステ)こそ神の霊を受けた人々の共同体の誕生、すなわち教会がこの世に生まれた日なのです。

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