2014年2月2日日曜日

ルカ2章41〜49節「自分の父の家にいる」

第165号

<新年礼拝>

ガリラヤのナザレに住んでいたヨセフとマリアは毎年、村の人と一緒にエルサレムに行き、神殿で過越祭を守っていました。「イエスが十二歳になったときも、…祭りの慣習に従って都に上」りました。ところが祭りの後、両親はイエスをエルサレムに残したまま帰路についてしまいました。親類や友達と一緒にいるものとばかり思っていたからです。ところが彼らの中にイエスはいないのが分かりました。慌てて探し始めたところ、やっと三日後に神殿の境内で学者たちの真ん中に座り、話を聞いたり質問したりしているのを見つけたのです。マリアは驚き「なぜこんなことをしてくれたのです。ご覧なさい。お父さんもわたしも心配して探していたのです」と言うと、イエスは「どうして私を探したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを知らなかったのですか」と答えました。主イエスは自分の本当の父が誰であるかを知っていたのです。そして、イエスにとって「神殿」こそ、父と子との霊的な交わりを持つ接点でもあったのです。

 昨年の大晦日に秋田にいる妹から電話がありました。母の容態がよくないのを知り、翌日の元旦に母に会いに行きました。午前中の聖研祈祷会の後すぐに教会を出て、母のところに着いたのは夜の七時半頃でした。眠っていた母は、わたしが来たのを知ると妹たちが止めるのを聞かず、ベットに座りました。ヤコブもまた高齢で病床にあったにも関わらず、息子のヨセフが見舞いに来たのを知ると「力を奮い起こして、寝台の上に座った」とあります(創世記四八章二節)。イスラエルと日本の習慣はよく似ているのに気づかされます。ちなみに日本のお正月もユダヤの過越祭の行事とほとんど同じです。次の日の午前中も妹と一緒に母を見舞いました。今度は、母は起きようとはせず、寝たままとりとめのない話を始めました。既に亡くなっている島根の母親のことです。子供の頃、栗を焼いてくれた、大きなスイカを切ってくれた、わたしが小学生の頃毎年、島根で夏休みを一緒に過ごしたこと、そしてあの頃は楽しかったと言います。母の心の中に母親が生きており、こうして歳を取っても常に母と交わりをしていることを物語っています。
 ルツ記にはモアブの地に移住したナオミのことが書かれています。彼女は夫のエリメルクと息子のマハロンとキリオンを亡くしたため、モアブ人である嫁のオルパとルツを里に帰し、一人で故郷ベツレヘムに帰ろうと決心したとあります。ナオミは嫁たちに「自分の里に帰りなさい」と言っています。英語訳聖書では「里」は「母の里」と訳されています(NIV)。娘にとって里は「母の家」です。しかし、ルツはナオミの言うことを聞かず、「自分の里」を捨て、ナオミのいるところを「里」としたのです。
 旧約聖書にはこのような母と娘との強い絆だけでなくアブラハムとイサク、ヤコブとヨセフと言った父と息子の結びつきもどれほど強いのかを教えています。子を失う父親の悲しみ、そして子も父を愛し、そのような父の思いを知っていたのです。それらは天の父と子である主イエスとの結びつきがどれほどのものかをわたしたちに教えます。
 同時に少年イエスは、天の父が自分をこの世に遣わされた目的をもよく知っていたのです。それ故、迎えに来た両親とすぐにナザレに下って行かれ、「両親に仕えてお暮らしになった」のです。

 紀元四世紀のはじめにアリウスという人が教会に登場しました。彼は主イエスが「神の子」であるなら、生まれた時があったと主張し、子である主イエスに時間的な始めがあるなら永遠者ではなく被造物であるとしたのです。彼の説への追従者が多く出たため、教会は混乱しました。そしてこの問題を解決するために三二五年、ニカイアで公会議が開かれました。アリウスに対抗するために立ったのがアタナシオスという人物でした。彼は「神の子」とは「ホモウシオス」(ギリシャ語でホモ=同じ、ウシオス=本質の造語)の意味であるとし、天の父と子である主イエスは「本質を同じくする」と主張しました。会議の結果はアタナシオスの勝利で終わり、今日わたしたちが用いているニカイア信条が生まれました。
 聖書には真理が書かれていますが、同時に聖書だけを読んでも正しく理解することが出来るとは限りません。その意味で信条、信仰告白もまた大切です。
 子である主イエスの十字架の苦しみは天の父の苦しみでもあり、痛みでした。それによってわたしたちの罪が赦されたので、神が無傷であった訳では決してありません。それ故、十字架はわたしたちへの神の愛の深さを教えます。

 少年イエスにとって神殿は「わたしの父の家にいる」ことでした。この言葉に、わたしたちは父への愛と父の里への望郷の念が込められているのかを知らなければなりません。そのことを知ることによって、わたしたちにとっても「教会」が「父の家」となるのではないでしょうか。

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