2014年2月16日日曜日

マルコ4章13〜20節「良い土地に蒔かれた種」

第166号

「種を蒔く人」の「たとえ」は四章の一節から始まり二〇節まで続きます。一節から九節までがその「たとえ」で、一〇節から一二節までは「たとえで話す理由」、そして、一三節から二〇節はその「たとえの解き明かし」です。
蒔かれる「種」とは「神の言葉」です。それは「福音」であり、「十字架の言葉」です。わたしたちは十字架を見上げるとき、そこに自分の罪と裁きを見ます。そして、そこにわたしたちの罪の身代わりとなっておられる神ご自身がおられます。それは神の哀れみと赦し、そして何よりも愛です。それがわたしたちの神への感謝となり、讃美、礼拝に繋がっていきます。
 「道端に落ちた種」とは、人々に語られた種が、鳥、すなわちサタンが来て、その御言葉をその人から奪い去った場合です。「石地に蒔かれた種」とは艱難や迫害があると福音を捨ててしまう場合です。そして「茨の中に蒔かれた種」とは「この世の思い煩いや、富の誘惑、その他いろいろな欲望が心に入り込み、御言葉を覆いふさいで」実らなかった場合です。「良い土地に蒔かれた種」とは実を結び、ある者は三十倍、六十倍、そして百倍の実を結んだ場合です。
 このたとえと解き明かしは難しくはありません。福音は聞く人次第で、良い実を結ぶ者もあればそうでないのもある、と言っているからです。しかし、読んだ後、なるほどそういうことだったのか、と目から鱗が落ちる訳でもありません。なぜなら、もし福音は聞くわたしたち次第で救われることになる、あるいは救われない事にもなると言うのであれば、人の自由意志を認めることになり、人の救いに対する神の主権は否定されることになるからです。

 主イエスと律法学者ニコデモの対話のように、生まれつきのわたしたちは「神の言葉」を理解できません(参照、ヨハネ三章一〜二一節)。それは弟子たちも同じです。主イエスは弟子たちに特別にその意味を解いて聞かせましたが、それは後になって理解できるようになることを知っていたからです。そのとき初めて彼らは福音宣教者に変えられます。それが使徒を任命した理由で、彼らがそのようになるためにはペンテコステまで待たなければなりませんでした(使徒二章参照)。
 「主に不可能なことがあろうか」、これは九十九歳のアブラハムと八十九歳の妻サラに子が生まれると告げたときの主の言葉でした(創世記一八章一四節)。それから二千年後、天使ガブリエルはマリアに現れ、聖霊によって子が生まれると告げて「神に出来ないことは何一つない」と言われました(ルカ一章三八節)
 この言葉は主イエスによって現実の事となりました(ヨハネ一章参照)。主イエスは病人を癒され、死人を甦らされ、様々な奇跡をなされました。そして十字架につけられ、わたしたちの罪の身代わりとなられたのです。主イエスがこの世に遣わされて来たことによって「神の国」が到来し、「神の支配」が始まったのです。ギリシャ語のバシレイアは「国」を意味すると同時に「支配」も意味します。主イエスご自身が福音の種を蒔かれ、わたしたちの内に神の国(支配)を来らせるのです。

 「道端に落ちた種」とは、その人が福音を受け入れなかったというのではなく、主イエスがその人の内にあって働かれなかったということです。わたしたちは自分の考えや意思で福音を受け入れたり、受け入れなかったりすることはできません。「石地に落ちた種」とはその人に臨んだ艱難や迫害は、実は神によるものであることを受け入れることができなかった人です。神の赦しがなければ、誰一人、わたしたちに指一本触れることは出来ないからです。「茨の中に蒔かれた種」とはわたしたちの心を支配されているのは神であることを受け入れることの出来なかった人です。エジプトの王ファラオはモーセに逆らいイスラエルの民をエジプトから去らせることを拒みました。そのファラオの心をかたくなにしたのは神ご自身でした(出エジプト一一章一〇節、等々)。なぜ、神はファラオの心をかたくなにしたのでしょうか。それは歴史を支配しているのは人間ではなく、神であることをイスラエルの民に教えるためでした。ファラオがそうであったようにわたしたちの心と人生を支配されているのは神なのです。

 わたしたちの内も外も、そして目に見えるもの見えないもの、そのすべては神の主権(支配)の下にあります。そのことを認めることが出来ないことにわたしたち人間の罪があります。罪によって神の真理から離れたこの世は虚構から成り立っています。それは地位、名誉、財産といったわたしたち自身の幸せを求める姿に現れています。わたしたちは罪の奴隷となっていますが、そこから解放するために主イエスがこの世に遣わされて来たのです。わたしたちの生きる目的は神を愛し人を愛することです。それが実を結ぶこと、つまり主イエスとの交わりの回復です。わたしたちのうちに神の国が成長すれば世界においても神の国は広がって三十倍、六十倍、そしてある者は百倍の実を結ぶのです。

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