2014年7月20日日曜日

使徒13章1〜12節「二人の上に手を置いて」

 第171号

 パウロの第一次伝道旅行の始まりです。パウロはその後、続いて第二次、第三次伝道旅行を行いましたが、その時はこの地域からアジア、ギリシャ(マケドニアとアカイア)に足を延ばしました。わたしたちが不思議に思うのは、このような大きな働きをしたのが十二使徒の一人ではなく、月足らずで生まれた使徒パウロだったということです。
 アンティオキア教会にはパウロと共に、バルナバ、ニゲルと呼ばれるシメオン等が色々な国から集まって来ていました。彼らが礼拝していると聖霊が、バルナバとサウロをわたしの決めていた仕事に当たらせなさい、と命じました。「そこで彼らは断食して祈り、二人の上に手を置いて出発させた」のです。
 彼らと助手として同行させたヨハネ(マルコ)の一行が最初に向かったのはキプロス島で、バルナバとマルコの故郷でした。そこで彼らは地方総督セルギウス・パウルスに会いました。しかし、彼に仕えていたバルイエスという魔術師が二人の邪魔をしました。パウロが叱責すると彼の目は見えなくなりました。それを見たパウルスは驚き、主の教えを信じました。

 教会はペンテコステの日に聖霊が使徒たちに降ることによって始まりました。その時から彼らは大胆に宣教を開始したのです。ペトロの説教で信じた人たちは三千人を数えたと言います。彼らは皆、信心深いユダヤ人でパルティア、メディア、エラムなどアッシリアの各地からエルサレムに帰って来ていた人たちでした。その日以降、使徒たちの働きで信じる者の数は増えていきました。それに伴いエルサレムの教会ではギリシャ語を話すユダヤ人とヘブライ語を話すユダヤ人の間で日々の分配のことで問題が起こるようになりました。それはやもめたちへの食事の量の不公平だけではなく、信仰の違いがあったからでした。ユダヤ教を信じ、その律法と神殿生活を厳格に守って主イエスを信じる人たちと、キリストを信じる信仰だけで救われると信じる人たちとの争いであり、割礼の有無が救いに必要かどうかということでもありました。
 そのような時に極めて大きな出来事が起こりました。ステファノの殉教でした。石で打たれる直前の彼の説教には、律法でなく主イエスによる救いが述べられています。ステファノの死を契機に教会への大規模な迫害が始まりました。使徒を除く信者たちはユダヤとサマリア地方に散っていったのです。使徒たちが教会に留まることが出来たのは神殿を中心とした生活をしていたからです。しかし教会から散っていった人たちはもはやユダヤ人のように律法に従う生活をしていませんでした。
 パウロはステファノの殺害に賛成し、石を投げる人たちの上着の番をしていました。パリサイ派の熱心な一員であった彼はなおもクリスチャンへの弾圧を続けていました。そしてクリスチャンを捕縛しエルサレムに連れて来る権限を祭司長からもらい、ダマスコに行く途上、「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」という主イエスの声を聞いたのです。パウロの母国語はギリシャ語で、生まれはキリキアのタルソでした。彼の説教はステファノと同じで、異邦人はユダヤ教によるのではなく、ただ主イエスを信じる信仰によって救われるというものでした。
 エルサレム教会は次第に衰退に向かい、特にその傾向は西暦七〇年のローマ・ユダヤ戦争以降に強まり、代わってアンティオキヤ教会と言った異邦の地にある教会の力が強くなっていきました。使徒たちもエルサレムから散っていきました。パウロはローマ、そしてトマスはインド、マルコはエジプトに行ったと言われます。ヘブル語を話す多くの使徒や信者たちはアッシリアを中心とする東方に向かいました。そこにはアッシリアとバビロン捕囚の時、連れて行かれた多くのユダヤ人がいたからです。彼らはユダヤ教を否定しなかったため、多くのユダヤ人がキリストを信じました。ギリシャ語を話すユダヤ人たちはギリシャ、ローマへと散っていきました。伝道は彼らから異邦人改宗者に引き継がれ、次第にユダヤ教と分かれたのです。
 わたしたちはパウロの書簡等から西方教会にのみ目を向けがちですが、同時にアッシリアの東方教会の働きにも目を向ける必要があるのではないでしょうか。その影響は西欧諸国と同じ時期に中国や日本にも及んでいました。アッシリア東方教会とネストリウス派(景教)の人たちの多くはユダヤ人改宗者だと言われています。
 

 パウロの第一次伝道旅行の訪問地キプロスでの最初の実はローマの地方総督セルギウス・パウルスでした。このような地位にある人物が信徒となることは、大きな意味のあることでした。彼はもはやローマ皇帝の僕ではなく、主イエスの僕となったのです。神の国の一員にされた地方総督セルギウス・パウロスは、もはや二人の主人に兼ね仕えることは出来ないのです。それはローマ帝国に対する神の国の勝利であって、紀元三一三年にローマ帝国がキリスト教を国教とするまでの長い道のりの始めの一歩となったのです。それだけでなくキリスト教はローマ帝国が崩壊した後も広がり続け、今日に至るのです。バルナバとパウロの「二人の上に手を置いて」伝道に送り出したアンティオキア教会の祈りは世界宣教を夢見る今日のわたしたちの教会の祈りでもあります。

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