2014年6月15日日曜日

使徒2章1〜11節「大勢の人が集まって来た」

第170号

ペンテコステ礼拝〉

 五旬祭の日に約束の聖霊は弟子たちに下り、主イエスを頭とする新しい共同体が誕生しました。弟子たちは御言葉を宣べ伝え始めたのです。
 五旬祭は過越祭から数えて五〇日目に当たります。過越祭は昔、イスラエルの民がモーセに率いられてエジプトを出た日を記念するものです。民は一ヶ月後にシナイ山に到着し、そこで神から十戒を授けられましたが、その日を記念するのが五旬祭です。そして荒れ野の四〇年の生活を記念するのが仮庵祭です。この祭りの間、人々は庭に簡単な小屋を作りそこで生活するのです。これらはイスラエルの三大祭りで、いずれも歴史と聖書に基づいた宗教的な祭りですが、約束の地カナンに入ったイスラエルの民は土着の豊穣の祭りと結びついて、過越祭は大麦の収穫を祝い、五旬祭は小麦の収穫を祝い、仮庵祭では秋の収穫を祝うようになりました。これらの祭りはキリスト教では復活祭(イースター)、聖霊降臨日(ペンテコステ)、降誕日(クリスマス)となっています。
 イエスは過越祭に十字架に付けられましたが、それは御自身が祭りで用いられる贖いの小羊となられたということです。しかし、主イエスは三日目に墓より甦られ、「御自身が生きていることを、数多くの証拠を持って使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ」たのです。弟子たちに御自身の手足、脇腹の傷跡を示され、また一緒に食事をされました。「モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明され」、「神の国について話され」たのです(使徒一章三節、ルカ二四章二七節)。その後、弟子たちが見ているうちに天に上げられました。主イエスは弟子たちに「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである」と命じました(使徒一章四、五節)。弟子たちが聖霊を受けたのは主イエスの昇天から一〇日後のことでした。

 過越祭に弟子たちが一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまりました。すると、一同は聖霊に満たされ、ほかの国々の言葉で「主の偉大な業」を話し始めました。この物音に大勢の人が集まって来ました。彼らは「天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人」たちで、エルサレムに帰って自分たちに約束された救い主を待ち望んでいたのでしょう。彼らは自分が生まれた国の言葉で主イエスの誕生から、伝道、十字架、復活の出来事を聞いて驚いたのです。弟子たちの宣教は神の力によるものでした。また、弟子たちが人々のところに出かけていったのではなく、彼らの方から弟子たちのところにやって来たのです。
 聖霊はわたしたちを生かす命です。神はわたしたちの先祖アダムとエバを土の塵で造られましたが、命の息を鼻に吹き入れられることにより生きるものとされたのです。アダムとエバは神の戒めを破り、食べてはいけないと言われていた善悪を知る木の実を食べてしまいました。それによって神の霊は彼らを離れ、死ぬものとなりました。主イエスが来られたのはそのような人を生かすためでした。弟子たちに聖霊が降ることよって人は再び生きるものとなったのです。それが新しい共同体であって、教会の誕生でした。聖霊によって彼らは新しい創造物となりました(二コリント五章一七節)。もはやユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由人もないのです。神に国に入るには聖霊を受け、新しく生まれる以外にはありません。(ヨハネ三章一節〜一五節三章)。


 弟子たちは、主イエスはこの世に神の国を建てられると信じて従いました。その国はエルサレムから始まり、世界に広がり、自分たちもまた主イエスを助けてその国を支配しようと思っていたのです。それは主イエスをメシアと信じながら、自分の夢の実現にかけていたことに他なりません。そのため、主イエスが捕らえられ、裁きの座に立たされるとペトロは「この人を知らない」と三度も否認したのです。そして主イエスが十字架に付けられるとユダヤ人たちを恐れて部屋に閉じこもりました。このような弟子たちと同じように、聖霊を受けるためにはわたしたちは自我を砕かれなければならないのです。古い自分に代わって主イエスが生きるようになるためです。もちろん、自分の自我が完全になくなることことはなく、与えられた聖霊との間に戦いが起こります(ロマ書七章二四節)。しかし、御霊は弱いわたしたちを助けて下さるのです(ロマ書八章二六、二七節)。それがわたしたちの信仰の道です。高齢を全うした自然な死であろうとなかろうとそれは自分に死ぬという意味において殉教の道となります。それは神がなされることであり、不思議なことに喜びと平安の道でもあります。そして、たとえ生きている時に実現しなくてもこのような人のところに「大勢の人が集まって」来るのです。

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