2005年7月17日日曜日
マタイ5章1~12節「大きな報い」
2005年6月19日日曜日
マタイ5章1~12節「大きな報い」
第62号
山上の説教の「幸福への八つの態度」はいずれも同じ形の文です。すなわち前文は「…は、幸いである」と現在形で、後文は未来系となっています。最初は「心の貧しい人」です。貧しいとは地位も名誉も財産もない人です。社会で踏みつけられ、見放され、頼ることの出来るのは神だけという人です。二つ目は「悲しむ人」です。地位、名誉、財産を失うのは悲しいことです。親しい友人、親族、配偶者を失うとき、そして、自分の死を前にして悲しむのです。三つ目は「柔和な人」です。それは問題を神に委ねることの出来る人です。ですから、うろたえたり、あせったり、怒鳴ったりしません。語源的には「貧しい」と同じですが、人や神に対しもっと積極的に対応しています。神に対して謙虚で、人に対しては堂々としているのです。四つ目は「義に飢え乾く人」です。「義」とは神との平和です。それは主イエスの十字架の贖いによるものです。「義」とは社会的な正義を求めるということでもあります。「義を行う人」という意味ではありません。五つ目は「憐れみ深い人」です。他の人の心の中に入ってものを見、考え、感じることの出来る人です。他者との間に対立、嫉妬、脅威がないということでもあります。わたしたちの他者への憐れみは神に憐れみを要求する権利とはなりません。神の憐れみを受ける立場であるが故に人にも憐れみ深くなるのです。六つ目は「心の清い人」です。自己中心でない、二心なく純粋に神の栄光を求める人です。七つ目は「平和を実現する人」です。平和はヘブル語で「シャローム」です。それは争いがないこと以上を意味します。体と心が満足している状態です。旧約聖書のソロモンの時代の平和は、外にも内にも敵がない、災いがありませんでした。それが平和と繁栄の時代を招いたのです(列王記上五章)。最後は「義のために迫害される人」です。上記の実行のために戦い、迫害される人です。そして上記文すべてに該当する「幸い」とは「神に祝福される」ということです。「幸い」が神の贈り物として与えられるのです。
2005年5月15日日曜日
コリント二12章1~10節「わたしの恵みは十分である」
第61号
「誇り」は自分を高くし人を低くします。わたしたちは自分は頭が良いと誇り、また名誉、地位、財産を誇ります。信仰に熱心な人はそのことを誇ります。人は神に対してですら誇り、神を神と認めず、自らを神として生きようとします。サタンは人類の祖先であるアダムとエバを誘惑し、「神のように善悪を知るものとなる」と言いました。(創世記三:四)。そのサタンも「わたしは天に上り…いと高き者のようになろう」と高慢になり、天から地に落されました(イザヤ一四:一三~一四)。
エドウィン・ライシャワー博士はアメリカの在日大使として有名でしたが、博士の両親は日本への宣教師でした。夫妻に二人の男の子の後、女の子、フェリシアが生まれましたが、彼女が一歳になった時、高熱のため聴力が失われてしまいました。この夫妻の受けた大きな苦痛と苦難は、日本での使命の達成のために必要なことでした。この癒され難い傷は日本に奉仕するための「恵みの棘(とげ)」となり、彼らの祈りによって「日本聾話学校(ライシャワー・クレーマー学園)」が設立されました。
パウロの身に刺さった「棘」は何だったのでしょうか。それは彼に肉体的、精神的な苦痛をもたらしただけでなく、伝道者として致命的とも思えるものだったに違いありません。パウロは三度それを去らせてもらうよう主に願いました。しかし、彼の願いは聞き入れられませんでした。それは彼が常に謙虚な使徒であるために必要なことだと言うのです。
2005年3月20日日曜日
コリント二7章2-16節「御心に適った悲しみ 」
第60号
死だけでなく人は持っている地位、名誉、財産、そして健康を損なうとき悲しみます。裏切りに会ったとき、失恋したとき、友が去っていくとき悲しみます。罪を犯したとき、そして、鍛錬に会うときそれを悲しいものと思うのです(ヘブライ一二:一一)。
わたしたちは悔い改める前と後では変わります。それまで自分のものであったのが主イエスのものとなり再び与えられるからです。そこには新しい関係が生まれるのです。アブラハムは百歳になって与えられたサラとの独り息子イサクを神に返すことによって再びその子を得ました。。ダビデは後継者アムノンとアブサロムを失いましたが、ソロモンを得ました。、ヤコブは死んだと思っていたヨセフがエジプトで生きているのを知りました。主イエスを否んだペトロは復活の主イエスから「わたしの羊を養いなさい」と言われました。同じことはわたしたちにもいえるのです。主イエスのために「家、兄弟、姉妹、父、母、子供、畑を捨てた者は皆、その百倍もの報いを受け、永遠の命を受け継ぐ」のです(マタイ一九:二九)。
わたしたちは神の「御心に適った悲しみ」を経験することによって、もはや揺り動かされることのない永遠の命に至るまで継続する、堅固なものを再び得るのです(ヘブライ一二:二七)。それがキリストにある新しい交わりなのです。
2005年2月20日日曜日
コリント二4章16-5章10節「転移ある永遠の住みか」
第59号
キリスト教はどうでしょうか。パウロは「地上の『幕屋』を脱いでも『裸』のままではいない」、「神によって『建物』が備えられている」と言います。それは復活の新しい身体で、神による新しい「人」の創造です。それは美しく、永遠に朽ちない身体です。
2005年1月16日日曜日
ルカ11章5-13節「門をたたきなさい」
第58号
〈埼玉(二区)新年合同礼拝〉
主イエスは、どのように祈ったらよいのかとの弟子たちの求めに応じて、「主の祈り」を教えられました。そして引き続きたとえ話をされました。友人が真夜中に立ち寄りました。パレスチナでは、旅行者は熱い日中を避け、日が陰ってから旅をしました。何か起こるとすぐに真夜中になってしまいます。その家には突然着いた友人に食べさせるパンはありませんでした。人々は一日必要な分だけのパンを朝焼いたからです。それで別の友人の家までパンを借りに行ったのです。
このたとえ話の前提となっているのは、「あの人のところには必ずパンがある」ということと「それが唯一の解決方法」だということです。わたしたち日本人の多くには慎み深い、淡白、潔い、気が弱い、無理強いは嫌い、遠慮がちといった言葉が当てはまります。ですから、その人のところにいく前から「今時分行ったのでは悪い」、「起きていればいいのだが」という気持があります。友人の家に着いても遠慮がちに声をかけます。しかも、中から「面倒をかけないで下さい。もう戸は閉めたし、子供たちはわたしのそばで寝ています。起きてあなたに何かをあげるわけには行きません」という声がすれば、きっと驚いて、来なければよかった。立ち寄った友人には我慢してもらおう、とすぐにあきらめて帰ってしまうでしょう。しかし、この人は決してあきらめませんでした。与えられるまで戸をたたき続けたのです。
ルカの福音書には「放蕩息子」のたとえが書かれています(一五:一一~三二)。父から財産を分けてもらった息子は遠い外国に行き、そこで放蕩の限りを尽くし財産をすべて使ってしまいます。そして飢饉が起こるのですがこの息子には食べるものがありません。そこで初めて父親を思い起こします。そこにはたくさんのパンがあるからです。帰ってきた息子を遠くから見つけた父親は飛んで行って食事だけでなく必要なものをすべて与えます。このたとえの前提もまた「あの人のところには必ずパンがある」ということと「それが唯一の解決方法」だということです。
2004年12月19日日曜日
ルカ1章26-38節「生まれる子は聖なる者」
第57号
〈クリスマス礼拝〉
ガリラヤの田舎町、ナザレに住む乙女マリアのところに天使ガブリエルが遣わされました。「おめでとう、恵まれた方、主があなたと共におられる」。天使の言葉を聞いてマリアは驚きました。そして天使は、まだ結婚していないマリアに子が生まれることを告げました。そのようなことはあり得ないはずです。しかし、ガブリエルはマリアに「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる」と言ったのです。聖霊は神です(ヨハネ四:二四)。したがって生まれる子の父は神だと言われるのです。ガブリエルは「その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない」と言われました。神の子が与えられる約束はサムエル記下に書かれています。そこでは主はダビデにこのような約束をしております。「主があなたのために家を興す。あなたが生涯を終え、先祖と共に眠るとき、あなたの身から出る子孫に跡を継がせ、その王国を揺るぎないものとする。この者がわたしの名のために家を建て、わたしは彼の王国の王座をとこしえに堅く据える。わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となる」(六:一一~一四)。ここで主なる神は、わたしがその子の父となり、その子はわたしの子となると言われております。マリアに告げられた主イエスの誕生はその約束の成就でした。
聖書に「神は愛です」と記されていますが、わたしたちは時としてその愛を疑うことがあります(第一ヨハネ四:一六)。私をこのような試練に会わせる神は本当に愛なのかと思うのです。またわたしたちは神の義を疑うこともあります。何故、この世に不正がはこびり、神はそれを放置されているのだろう。神が全能であるなら何故この世を正義で支配されないのだろうかと思うのです。
しかし、わたしたちは神の聖さについては疑うことはありません。「聖」は神の本質です。創造者なる神と被造物との間には越えがたい壁があります。それは神が聖だからでもあります。マリアから「生まれる子は聖なる者、神の子」です。神はその子の父であるが故にアダムとエバの犯した罪(原罪)の影響を受けていません。そしてその子は、「聖なる者、神の子」であるが故に罪を犯すことの出来ないお方でもあります。実際、生まれた時から死ぬまで少しの罪も犯すことはありませんでした。しかし、その子は同時に、アダムとエバの子孫であるマリアの子でもあります。主イエスは人の弱さを知っておられ、罪の誘惑に会われたのです。主イエスが神であるだけなら人との関係はなくなります。主イエスが人であるだけなら人の罪を救うことは出来ません。神であり人である主イエスであって初めて人を贖うことが出来るのです。それが救い主、メシアなのです。旧約聖書では羊や山羊などの動物の血を犠牲として捧げましたが、動物は人を贖うことは出来ません。儀式は真なるものの型であって、主イエスの血潮による贖いをわたしたちに教えるのです。
天使ガブリエルはマリアに「恵まれた方、主があなたと共におられる」と言いましたが、それは、マリアがお金持ちになる、苦労がなくなるということではありません。マリアの生涯は苦労の連続で、最後は愛する子の死を真近に見なければなりませんでした。しかし、どのような苦難の中にあっても「主があなたと共におられる」ということが恵みなのです。神の恵みを受けるに値しない者にも、主は共におられるのです。マリアは天使から「あなたは神から恵みをいただいた」と言われました。それは「聖なる者、神の子」を宿したからです。主イエスの母となったマリアは神から恵みをいただいたのです。神がその人を通して働かれるのであるなら、だれでも「あなたは神から恵みをいただいた」のです。わたしたちは自由について思い違いをしています。自分勝手に、気ままに生きることが出来るならそれが幸福だと思っています。しかし、本当の幸福はそうではなく神からなすべき仕事が与えられることなのです。それが恵みなのです。マリアが恵みをいただいたのは、「聖なる者、神の子」を宿し、産んで、育てることが出来たからでもあります。
マリアは主イエスをその身に宿しましたが、わたしたちも心に主イエスを宿すことが出来ます。心の中に授けられた子は「聖なる者、神の子」です。その子がどんどん成長することによって信仰が増していきます。そしてついには主イエスの香りを放す者へと変えられていくのです。わたしたちもまた、マリアと同じように「あなたは神から恵みをいただいた」者なのです。
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