2009年6月21日日曜日

ヘブライ書10章19-39節「真心から神に近づこう」

第110号

  
 最近読んだ本に、わたしたちは主イエスを受け入れた時から清い者とされ、罪と縁を切った生活が始まると書かれていました。さらに、ある牧師は説教で、わたしが嘘をついたり、乱暴な言葉を使ったり、両親を敬わなかったりしたのを見た人には百万円を払いましょう、とまで言ったことを紹介していました。主イエスの救いに預かった者は、それまでの罪から神の支配下に置かれることによって、もはや意識的な罪を犯すことはなくなり、聖霊の恵みによって「聖化」の道を歩み始めるとのことでした。
 それと対照的な記事が、別の小冊子に書かれていました。それは現行讃美歌二五六番についてでした。作詞者である葛葉国子さんは、戦後、胸を病み床に伏せっていました。毎日飲む薬の紙に詩を書いていましたが、その一つをオルガニストの大中寅二さんが作曲したのです。死を前にして自らの罪深さを知らされ、そのような自分と共にいて苦しまれる主イエスに感謝したものです。
 聖書には姦淫の女であったと言われるマグダラのマリアが主イエスに出会って救われたことが書かれてあります。ある教会ではこの罪の女が主イエスによって「聖人」とされ、聖霊の働きにより神に喜ばれるように変えられていく恵みが強調されています。別の教会ではマリアは主イエスに救われることにより自分の犯してきた罪がどのようなものであったかを知らされ、今なお罪深い自分が生かされていることへの感謝が強調されています。
 この信仰の違いは福音と律法の関係をどのように理解するかによって生じます。福音と律法が結びついているのであるなら、わたしたちは神の恵みに応答する「責任」あるいは「義務」を持つことになります。福音は律法すなわち良い行いに結び付き、その実を結ぶことが神に喜ばれることになります。この場合、信仰は極めて倫理的な面が強調されることになります。しかし、福音と律法を切り離すなら、わたしたちの救いはあくまで主イエスの十字架と復活によるものとなります。従って、救われた後も自らの心と行いの「聖化」を求めることは自由意志の働きに他ならず、主イエスのなされた救いに人間的な価値を付加しようとするものでしかなく、その結果は罪に帰することになります。

 信仰者には、主イエスによって罪が赦され、新しい自分とされたことに感謝しながら「聖化」の道を歩む者と、今なお罪人でありながらそのような自分を義人としてくださっている恵みに感謝しながら歩んでいる者がいるようです。わたしたちの信仰は、果たしてどちらなのでしょうか。主イエスはそのどちらに「忠実な良い僕だ、よくやった」と言われるのでしょうか(マタイ二五:二三)。
 主イエスは、神を愛し、人を愛しなさい、この言葉に律法全体が基づいている、と言われ(マタイ二二:三七~四〇)、「あなたがたの父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」と言われました(マタイ五:四八)。これらの言葉は、心と行いが清くなり少しでも神に近い存在となって神の前に立つことを求めているのでしょうか。
 パウロはそのように考えるわたしたちに、だれ一人神の前で義とされないこと、律法によっては、罪の自覚しか生じないこと、それゆえ、律法と関係なく、神の義が示されたことを教えます(ロマ書三:二〇~二一)。そして、あなたがたは霊によって始めたのに、今になって肉によって仕上げようとするのですかと問うのです(ガラテヤ書三:三)。

  主イエスは「新しい生きた道」となられました。モーセの跡を継ぐ者として、律法の基準に従ってわたしたちがどれほど霊的な高みに到達し、良い行いができるようになったのかを裁かれるお方ではありません。わたしたちのために為すべきすべてをしてくださった救いの創造者であって、当事者である神ご自身なのです。それによって、律法は「古い死んだ道」となったのです。
 主イエスはご自身の栄光とこの世を捨てられました。そうすることにより、「来たるべき世界」をご自分の国とされたのです。「あなたがたは、光に照らされた後、苦しい大きな戦いによく耐えた初めのころのことを、思い出して下さい」とあります。わたしたちは主イエスの約束に生きるものです。その約束とは主イエスの再臨と新しい世界の住民とされることです。そのために、あなた方は「あざけられ、苦しめられ、見せ物にされたこともあり」、「捕えられた人たちと苦しみを共にし」、「財産を奪われても喜んで耐え忍んだのです」。
 「真心から神に近づこう」とは、この主イエスに目を注ぐということに他なりません。それは自分やこの世のために生きるのではなく、天の父の約束に生きるということなのです。

2009年5月17日日曜日

ヘブライ書7章1-28節「イエスは永遠に生きている」

第109号 

神殿における祭司の務めは人間がいかにして神に近づくことができるのかを教えています。大祭司は年に一度、贖いの捧げものの血を携えて聖所を通り至聖所に入りました。至聖所は神の臨在の場でした。そこで民の罪が赦されるように執り成しの祈りをし、聞き届けられた確信を得ると神殿の外に出て、待っている民に罪が赦されたことを告げたのです。祭司は「レビの系統」でした。レビはヤコブの子で、他の兄弟は嗣業の土地を得ましたが、レビとその子孫だけは嗣業の土地を持たず、民から十分の一の捧げ物を受けたのです。
 ヘブライ人の著者はこのような祭司制度をメルキゼデクと比較しています。メルクは「王」で、ツエデクは「正義」の意味です。彼には誕生と死の記録がありません。戦いから帰ってきたアブラハムを祝福し、アブラハムから十分の一の捧げものを受け取りました。このことはまだレビが生まれる前のことですから、レビもまたアブラハムによってメルキゼデクから祝福を受け、十分の一の捧げものをしたことになりました。同時に、アブラハムはわたしたちの「信仰の父」でもあるので、わたしたちクリスチャンもまたメルキゼデクから祝福を受け、十分の一の捧げものをしたことになります。
 メルキゼデクは主イエスの「ひな型」です。主イエスもまたレビの系統に属さず、突如として現われ、天の父から任命され、「誓い」によって「永遠の大祭司」とされたからです。

 主イエスは「永遠に生きている」お方です。永遠に存在するお方は神だけです。このお方によってわたしたちが今住んでいる「この世」は創られました。初めがあり、終りがある有限の世界です。「この世」に対し「来るべき世界」があります(二章五節)。そこに入ることがわたしたちの「希望」であり「救い」です。「来るべき世界」は神のもとに用意されていて、「この世」の終わりと共に天から下ってきます(黙示録二一章一~二節)。この「聖なる都、新しいエルサレム」は永遠に続くのです。「この世」と「来るべき世界」との間には断絶があります。
 「永遠に生きている」主イエスは「来るべき世」の創造者でもあります。わたしたちを「来るべき世界」に入ることができるように、「人の子」となって「この世」に遣わされてきたのです。このお方は十字架でわたしたちの罪を贖われましたが、復活し「神の子」であること、そしてわたしたちもまた復活することの確かなことを証しされました。
 このお方が「この世」の終わりの時、わたしたちを裁かれるのです。その時、わたしたちはどのように新しい「聖なる都」の一員に相応しいと主張することができるのでしょうか。「この世」でしてきたよい行いでしょうか。それともわたしたちの信仰によるのでしょうか。
 近代文明は英国で起こった産業革命から始まりました。中世に終焉を告げた文芸復興、啓蒙思想により人間の理性への信頼が著しく高まりました。人間は罪を含め様々な問題を解決できると信じ、希望に満ちた将来を夢見ることができるようになりました。しかし、この極めて楽観的な人間中心主義は結局、第一次、第二次と続いた世界大戦により砕かれてしまいました。そして今日、テロや犯罪、地球温暖化や環境破壊、貧困、差別、格差といった様々な問題が人類の将来を不透明にし、不安にしています。多くの教会や神学者がこのような「この世」の問題に取り組んできました。
 わたしたちは人間の英知を認め、社会への貢献によって「来るべき世界」の一員に相応しいと認められると思っているのでしょうか。わたしたちは神の被造物にすぎません。塵から生まれ塵に、裸で生まれ、裸で去っていくのです。「この世」の価値は主イエスの生き方と一致するのでしょうか。「新しいエルサレム」で通用するのでしょうか。それとも主イエスに救われたことによって、わたしたち自身の内に永遠の命に相応しい価値を持ったのでしょうか。

主イエスの十字架に、わたしたちの罪を赦す神の無限の愛があります。主イエスは、十字架上で「父よ、彼らをお赦しください」と祈られました。そのお方は裁きの座でも、わたしたちのために執り成してくださるのです。それ故、神はわたしたちの罪を見ずにわたしたちを「来るべき世界」の一員としてくださるのです。
 聖書の神は聖なる神で罪を裁かれる厳しいお方です。神が神であられ、人が人であるからです。もし神が厳しいお方ではなくわたしたちの友であるというのなら、それは祈りにおいてでしょう。
 わたしたちが救われるのは神であり、人であられた主イエスが十字架で流された贖いの血と執り成しによります。このお方こそ神の「誓い」によって立てられた「永遠に生きている」大祭司だからです。

2009年4月19日日曜日

マタイ28章1-10節「あの方は復活された」

第108号

  〈イースター礼拝〉

 ユダヤ人指導者たちは主イエスが大工だったことを知っていました。彼らから見れば主イエスは人を教えるに必要な学歴も権威も持っていませんでした。しかも、自分を「神の子」とし、神と等しくしていたのです。それは神への冒涜であって死罪に当たりました。民衆は主イエスのなさった「しるし」を見て従いましたが、自分たちの思うようにならないのを知ると離れて行きました。彼らにとって、主イエスは病気を癒すといった自分たちの利益にかなう者であるかどうかが最大の関心事だったのです。主イエスの弟子たちは「あなたはメシア、生ける神の子です」、「あなたは永遠の命を持っておられます」と告白ました(マタイ一六:一六、ヨハネ六:六八)。しかし、彼らが信じるメシアは、イスラエルをローマから救われる政治的な王でした。弟子たちはこの世に神の国をつくり、主イエスと共にその国を支配することを願っていました。母マリアにとって主イエスはどのような存在だったのでしょうか。彼女にとって主イエスは何にも代え難い大切な我が子でした。マリアにとって十字架を見ることはどれほど大きな苦痛だったことでしょう。
 主イエスは十字架に付けられました。その上で動くこともできず、呼吸することすら困難でした。それは、弱さ、無力の極みで、そこから逃れるには死しかありませんでした。主イエスは人に捨てられ、神に捨てられたのです。その時代の誰がこのお方が神であると信じたでしょうか。今日、多くの人がそうであるように「このお方がどうして神なのか」ということでした。

 主イエスが死んで三日目の朝早く、マグダラのマリアともう一人のマリアが墓のところに行きました。すると天使が現れ「あのお方は死者の中から復活された」、あなた方はそのお方に「お目にかかれる」、そのことを「確かに、あなた方に伝えました」と言われたのです。
 婦人たちはその言葉を弟子たちに伝えようと道を急いでいる途中、主イエスが彼らの前に立たれました。婦人たちは主イエスの足を抱き、ひれ伏しました。「ひれ伏す」とは「礼拝」であって、自らの命を差し出すことです。それは神に対してだけなされる行為でした。主イエスは彼らの礼拝を受けられたのです。
 婦人たちは復活された主イエスの「証人」となりました。わたしたちは聖書を読み、説教を聞くことによって「信じる」ことができます。しかし、復活の主イエスに出会うことなくしてそのお方の「証人」となることはできません。
 復活の主イエスに出会うことによって、わたしたちは変えられます。かつては、神が天地を創られたのだから、その神が主イエスを死から甦らせることだってできる、と信じていたのが、主イエスが主体となり、このお方によって天地は創られたと信じることができるようになるのです。主イエスがこの世界を保持され支配されているのです。天の父と御子イエスは同じ神であって、創造と救済が結びつくのです。神は創造の初めに「光あれ」と言われましたが、同じように混沌とした闇の世界に「神の子」である主イエスが「光」となって来られました。このお方は十字架の死を避けることができたにもかかわらずその力を行使されませんでした。それはご自身の命を捧げることが、わたしたち人間の罪を赦す唯一の道であるのを知っていたからです。わたしたちは十字架に「人の子」である主イエスの弱さと共に、「神の子」である主イエスの力とわたしたちへの愛を見るのです。

 主イエスは「神の子」であり「人の子」でした。「人の子」である主イエスは、すべての人が見ることができました。エルサレムに住んでいた人は誰でもゴルゴダに行けば十字架に付けられた主イエスを見ることができたのです。「人の子」である主イエスはこの世に再び来ると約束されましたが、その時にも、その有様はすべての人の目に見えることでしょう(ルカ二一:二七)。
 復活された「神の子」である主イエスの姿は多くの人の目に隠されています。主イエスの弟子や母マリアですら復活の主イエスに出会うまで、主イエスが神ご自身であるとは思ってもいませんでした。復活されたこのお方は死に勝利された生ける神でした。主イエスは二人の婦人だけでなく弟子たち、そして多くの人たちにご自身を示され、今日に至っています。
 わたしたちもまた、そのことの「証人」です。「あのお方は復活された」のです。「あなたも会うことができる」のです。そして、わたしたちは「確かにあなた方に告げました」。それがわたしたちの教会の「証し」なのです。
 わたしたちは死んでしまったお方の教えを学んで今、生きる糧にしている訳ではありません。今生きておられるそのお方の御言葉に従っているのです。

2009年3月15日日曜日

マタイ28章1-10節「あの方は復活された

第107号

  〈イースター礼拝〉

 ユダヤ人指導者たちは主イエスが大工だったことを知っていました。彼らから見れば主イエスは人を教えるに必要な学歴も権威も持っていませんでした。しかも、自分を「神の子」とし、神と等しくしていたのです。それは神への冒涜であって死罪に当たりました。民衆は主イエスのなさった「しるし」を見て従いましたが、自分たちの言いなりにならないのを知ると離れて行きました。彼らにとって、主イエスは病気を癒してもらえるといった自分たちの利益にかなう者かどうかでしかありませんでした。主イエスの弟子たちは「あなたはメシア、生ける神の子です」、「あなたは永遠の命を持っておられます」と告白ました(マタイ一六:一六、ヨハネ六:六八)。しかし、彼らが信じるメシアは、イスラエルをローマから救われる政治的な王でした。弟子たちはこの世に神の国をつくり、主イエスと共にその国を支配することを願っていました。母マリアにとって主イエスはどのような存在だったのでしょうか。彼女にとって主イエスは何にも代え難い大切な我が子でした。マリアにとって十字架を見ることはどれほど大きな苦痛だったことでしょう。
 主イエスは十字架に付けられました。その上で動くこともできず、呼吸することすら困難でした。それは、弱さ、無力の極みで、そこから逃れるには死しかありませんでした。主イエスは人に捨てられ、神に捨てられたのです。その時代の誰がこのお方が神であると信じたでしょうか。今日、多くの人がそうであるように「このお方がどうして神なのか」ということでした。

 主イエスが死んで三日目の朝早く、マグダラのマリアともう一人のマリアが墓のところに行きました。すると天使が現れ「あのお方は死者の中から復活された」、あなた方はそのお方に「お目にかかれる」、そのことを「確かに、あなた方に伝えました」と言われたのです。
 婦人たちはその言葉を弟子たちに伝えようと道を急いでいる途中、主イエスが彼らの前に立たれました。婦人たちは主イエスの足を抱き、ひれ伏しました。「ひれ伏す」とは「礼拝」であって、自らの命を差し出すことです。それは神に対してだけなされる行為でした。主イエスは彼らの礼拝を受けられたのです。
 婦人たちは復活された主イエスの「証人」となりました。わたしたちは聖書を読み、説教を聞くことによって「信じる」ことができます。しかし、復活の主イエスに出会うことなくしてそのお方の「証人」となることはできません。
 復活の主イエスに出会うことによって、わたしたちはそれ以前の自分とは変わります。わたしたちは、神は天地を創られたのだから、その神が主イエスを死から甦らせることはできる、と信じていました。しかし復活の主イエスに出会うことは「このお方によって天地は創られた」と信じることができるようになるのです。このお方が世界を保持され支配されているのです。天の父と御子イエスは同じ神であって、創造と救済が結びつくのです。神は創造の初めに「光あれ」と言われましたが、同じように混沌とした闇の世界に「神の子」である主イエスが「光」となって来られました。このお方は十字架の死を避けることができたにもかかわらずその力を行使されませんでした。それはこれ以外にわたしたち人間の罪を赦す道がないのを知っていたからです。わたしたちは十字架に「人の子」である主イエスの弱さと共に、「神の子」である主イエスの力とわたしたちへの愛を見るのです。

 主イエスは「神の子」であり「人の子」でした。「人の子」である主イエスはすべての人が見ることができました。エルサレムに住んでいた人は誰でもゴルゴダに行けば十字架に付けられた主イエスを見ることができたのです。「人の子」である主イエスは再びこの世に来ると約束されましたが、その時にも、その有様はすべての人の目に見えることでしょう(ルカ二一:二七)。
 復活された「神の子」である主イエスの姿は多くの人の目に隠されています。主イエスの弟子や母マリアですら復活の主イエスに出会うまで、主イエスが神ご自身であるとは思ってもいませんでした。復活されたこのお方は死に勝利された生ける神でした。主イエスは二人の婦人だけでなく弟子たち、そして多くの人たちご自身を示され、今日に至っています。
 わたしたちもまた、そのことの「証人」です。「あのお方は復活された」のです。「あなたも会うことができる」のです。そして、わたしたちは「確かにあなた方に告げました」。それがわたしたちの教会の「証し」なのです。
 わたしたちは死んでしまったお方の教えを学んで今、生きる糧にしている訳ではありません。今生きておられるそのお方の御言葉に従っているのです。

2008年3月16日日曜日

ヨハネ13勝1-20節「あなたがしたこと」

第95号

 過越祭は、今日の暦で三月下旬から四月の中旬にあたるユダヤ暦のニサン月の一五日から二二日までの一週間でした。種なしパンの祭りとも呼ばれました。一四日の午後、神殿で屠られた羊を各家庭で焼き、その晩食べました。ユダヤでは日没と共に新しい日がはじまったので、日付が一五日に変わりました。
 主イエスはこの食事を弟子たちと一緒にとられましたが、共観福音書と違ってヨハネによる福音書ではその祭りの「前のこと」となっています。主イエスは、「食事の席から立ち上がって上着を脱」いで、弟子たちの足を洗いはじめました。洗足についてはヨハネによる福音書だけに記載されています。そして「弟子たちの足を洗ってしまうと上着を着て、再び席に着」かれました。主イエスの洗足は「上着」で括弧として囲っています。
 「上着」、「衣」は聖書では特別な意味があります。アダムとエバは罪を犯した後、「裸であることを知り、いちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うもの」にしましたが、神はその葉に代え「皮の衣を作って着せられ」ました(創世記二、三章)。ヨセフ物語では、ヤコブはヨセフに「裾の長い晴れ着を作」りましたが、兄たちはこの「晴れ着をはぎ取り」、「雄山羊を殺してその血に着物を浸し」、それを「父のもとへ送り届け」ました(三七章)。福音書には、ガリラヤ湖で漁をしていたシモン・ペトロは、復活された主イエスのところに行こうと「上着をまとって湖に飛び込んだ」とあります(ヨハネ二一:七)。ガラテヤ書には「あなたがたは皆、キリストを着ている」とあり(三:二七)、黙示録には「あなたがたは裸の者であることが分かっていない」、「裸の恥をさらさないように」、「勝利を得る者は…白い衣を着せられる」などと書かれています(三:五、一七、一八)。
 食事も聖書では霊的な交わりの意味でしばしば用いられます。このようなことからわたしたちは、主イエスは天で父と完全な充足にあったこと、そこから立ち上がり、神の栄光、権威、力を棄てて人となってこの世に来られたこと、その目的は、わたしたちの足を洗うためであったことが分かります。

 足を洗うのは奴隷の仕事でした。しかも異邦人奴隷にだけ求められているものでした。それを彼らの主であるイエスが弟子たちにしたのです。彼らはさぞかし驚いたことでしょう。ペトロのところに来ると彼は、「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか」と言いました。わたしの足を洗うにはおよびません。あなたのしていることは良く分かりました、という意味でした。
 他の弟子たちも同じですが、そのようにペトロが言ったのは、主イエスの宣べ伝えた神の国はこの地上に実現すると信じていたからです。メシアである主イエスは、イスラエルをローマ帝国の頸木から開放し、エルサレムにご自身の国を樹立され、さらにこの王国は近隣諸国から全世界に広がると信じていたのです。彼らの関心は、その暁には自分たちの内、誰が一番高い地位に着くのかというものでした(マタイ二〇:二〇~二八)。弟子たちは主イエスの洗足をこの観点からのみ理解し、自分たちに神と人に仕えるということはどういうことかを教えたものと思い込んでいました。
 しかし、主イエスはペトロに「わたしがしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」と言われました。主イエスの洗足は、もし「人に仕える」ことを教えるだけなら、一人の弟子の足を洗い、「皆もこのようにしなさい」と言えばそれで十分でした。

 洗足の本当の意味が分かるようになるためには、主イエスの十字架と復活、そしてペンテコステの出来事を待たなければなりませんでした。主イエスは「事が起こったとき、『わたしはある』ということを、あなたがたが信じるようになるためである」と言われましたが、十字架と復活は、神ご自身が人となってこの世にこられたことを示しています。その目的は「神の国」を伝えるためで、主イエスの再臨の時、「この世」は「新しい天と新しい地」に取って代わること、それまで教会がこの世に「神の国」として現在するのです。
 十字架はわたしたちの罪を贖うものです。わたしたちがこの「神の国」の民となるためには少しの罪があってはならないのです。主イエスの復活はわたしたちも復活することを教えています。主イエスが弟子たちにしたことは十字架で弟子たちの命を贖うことで、それが洗足でした。このことに目が開かれるなら、わたしたちもまた主イエスと同じように、「神の国」のためにこの世に遣わされた者となります。それが隣人への洗足で、わたしたちが御国に入る前に「あなたがたにしたこと」になるのです。

2008年2月17日日曜日

コロサイ書4章7-18節「熱心に祈っています」

第94号

  
パウロはこの書簡の結びの中で「あなた方の一人、キリスト・イエスの僕エパフラスが、あなたがたによろしくと言っています。彼は、あなたがたが完全な者となり、神の御心をすべて確信しているようにと、いつもあなたがたのために熱心に祈っています」と書いています。
 パウロは第三次宣教旅行で三年間エフェソに滞在しました。パウロの伝道の特徴は大都市を中心に行い、その教会で育った人たちを周囲の町々に遣わすというものでした。エパフラスもその一人でした。エフェソにいた彼はパウロによって福音に接し、故郷コロサイに戻って伝道をはじめました(一:七)。
 しかし、彼の教会に自分が救われた福音とは異なった教えが入って来ました。彼はこの問題を解決するためローマの獄にいたパウロに会いに行きました。パウロは彼の話を聞いてこの手紙を書きティキコとオネシモに託しました。

  イスラエルの王ダビデも祈りの人でした。「ダビデはその子のために神に願い求め、断食」しました(サムエル下一二:一六)。「その子」とはウリヤの妻バト・シェバとの間に出来た「ダビデの子」で、ダビデは自分の犯した罪を覆い隠すために彼女の夫を殺しました。ダビデは地面に横たわり、その子が助かるようにと祈り続けましたが、七日後に死にました。
 パウロも自分の「身に一つのとげ」が与えられたとき、そのとげをとってくださるようにと「三度主に願いました」(二コリ一二:七)。しかし、主イエスはその祈りに応えられませんでした。
 主イエスご自身、ゲッセマネの園で「この杯をわたしから取りのけてください」と祈りました(マルコ一四:三六)。「汗が血の滴るように地面に落ちた」激しい祈りに、天の父は応えてはくださいませんでした(ルカ二二:四四)。
 祈りは時としてわたしたちがどれほど熱心に祈ったからといって聞き届けられるとは限りません。わたしたちが祈っても祈らなくても神の御心がなされるとするなら、祈ることの意味はどこにあるのでしょうか。祈るより、どのようなことが起こっても、それを主の御心として受け止めることができますようにと、祈ったほうがいいのかも知れません。
 しかし、主イエスは弟子たちに「目を覚まして祈っていなさい」と言われました。彼らは主イエスが祈っている時、寝ていたからです。わたしたちも祈らないのであれば、主イエスから同じ叱責を受けるのではないでしょうか。
 ダビデは祈りによって、「その子」が自分の罪の身代わりになったことを受け入れました。主は「その子」によってダビデとバト・シェバを生かされたのです。「バト・シェバは(再び)男の子を産み、ダビデはその子をソロモンと名付け」ました。パウロの肉体の「とげ」は、彼に啓示された事が余りにもすばらしかったため「思い上がることのない」ためでした。主イエスの祈りも「父よ、わたしが飲まないかぎりこの杯が過ぎ去らないのでしたら、あなたの御心がなされますように」と続きました(マタイ二六:四二)。
 多くの人は、「わたしは配偶者のため、子供のために、隣人のために祈っている」と言われるかもしれません。しかし、それが単に、彼らが救われれば嬉しい、一緒に教会に行ける、人生の目標、価値観を共有できるというだけであるなら、このような祈りから神中心の祈りに変えられる必要があります。わたしたちは皆、ダビデと同じような罪を犯しながら、自分では気が付くことがありません。そのため主イエスの十字架の意味が分かりません。「ダビデの子」である主イエスだけが罪の結果である神の怒りからわたしたちを救うことが出来るのです(マタイ一:一)。

 エパフラスの祈りは対象が明確でした。コロサイの教会の人たち、そしてラオデキアとヒエラポリスの人々のためでした。そして何を求めて祈っているのかも明確でした。彼らが「完全な者」となるようにということでした。主イエスの血潮だけがわたしたちの罪を清め裁きの日に「完全な者」として御前に立つことが出来るようにするのです。エパフラスはまた「神の御心を全て確信しているように」と祈りました。パウロがこの書簡で解き明かした「神の永遠の計画」を知ることです。それは主イエスを知るように、ということです。主イエスに無尽蔵の富、永遠の命が隠されているからです。
 ダビデの祈りも、パウロの祈りも、「神の秘められた計画」を知るという目的を達成しています。その意味において、かなえられない祈りはありません。わたしたちの祈りも全てかなえられるのです。ですから絶えず目覚めていて、熱心に祈らなければなりません。

 

2008年1月20日日曜日

コリント二5章16-21節「新しく創造された者」

第93号
  年頭のテレビや新聞では環境問題が多く取り上げられていました。課題は、地球の温暖化を防ぐために、どのようにして二酸化炭素の排出量を抑えたらよいのかということです。中国は二〇〇七年には、アメリカを抜いて世界最大の二酸化炭素排出国となるようです。中国とインドが二〇三〇年までには増加する排出量の五十六%を占めるといわれています。両国は「地球温暖化は先進国が招いている問題であって、われわれが二酸化炭素排出量の規制を受けることも、これによって発展が制約されることもない」という立場です。中国の一人当たりの排出量は先進国の約三分の一です。インドに至っては十一分の一の量に過ぎません。インドでは一日一ドル以下で暮らす貧困層は三億人、電気のない生活をしている人は六億人といわれます。中国の貧困層は一億三千万人だそうです。先進国は、自分たちと同じような生活水準を目指しているこれらの発展途上国の経済成長を抑えることはできません。
 温暖化や大気汚染といった環境破壊のため、わたしたち人間が地球に生存できなくなる日が遠からず来るといわれています。しかも少しずつ来るというのではなく、突然、その限界に達し、後戻りできなくなるといわれています。

 聖書もまた、この世の終わりの日が来ることを告げます。それは環境破壊によるものではなく、主イエスの再臨によってです。神は「その日」を定めておられます。わたしたちにとって「神との和解」がなされているかどうかが問われる日です。「神との和解」がなされている人にとっては救いの日となり、そうでない人にとっては裁きの日となるからです。
 わたしたち人間は生まれつき神に敵対して歩んでいます。その思考、判断、行動、いずれも自己中心で自分を神としているからです。それ故、自分以外の神を信じることは出来ません。自分以外の神に従うことは、自己を否定することに他なりません。真実の神に従うなら、今までの生活や贅沢な暮らしと決別し、最も大切と思っているものですら捧げることが求められるかも知れないからです。
 主イエスに従った十二弟子たちもまた、自分中心の罪から逃れることは出来ませんでした。主イエスと共に「神の国」を支配することを夢見ていたからです。そのため自分たちの思いがかなわぬと知るや、主イエスを見捨ててしまいました。わたしたちもまた同じように、主イエスに自分を捧げるのではなく、主イエスを自分に仕えさせようとします。
 このようなわたしたちが本当の意味で救われたのは、聖霊によって神である主イエスの力を認め、その前にへりくだるということが起こったからに他なりません。神との和解は、自らを神としていたその罪を認め、主イエスに全てを委ねて従う決心をした時にもたらされます。

 今日、江戸時代の生活が見直されています。経済成長率がゼロの時代でした。生活必需品のほとんどは生涯、いや二代、三代に渡って使っていました。また農作物などの生産も自然のサイクルを最大限利用していました。庶民の間にも寺小屋教育は広まり、多くの人が読み書きそろばんが出来るようになりました。平和な時が続き文化も発展しました。
 もちろん問題も多くあったことでしょう。しかし、環境問題に直面するわたしたちの参考になる生き方がそこにはありました。しかし、そうであっても、その時代に戻ることは不可能です。そうするには、わたしたちは今享受してる便利な生活や、自分の持っているものを捨てることが求められるからです。
 「神との和解」は、わたしたちに神の霊と共に新しい命をもたらしました。それはわたしたちがこの世ではなく、永遠の命に生きるようにされるということでもあります。その結果、この世で持っている最も大切なものですら人に分け与えることが出来るようになるのです。マザーテレサはインドの貧しい人のために自分の生涯を捧げました。内村鑑三は戦争に突き進むかつての日本にあって命をかけて非戦論を唱えました。
 自己中心であるわたしたちには、神のため、また人のために自分を犠牲にする力が生まれつき備わっているというのではありません。「神との和解」によって私たちの内に与えられた聖霊によって変えられ、「新しく創造された者」となるのです。
 「新しく創造された者」には、「神との和解」の務めをなす使命が与えられます。人を恐れず福音を語るなら、必ず実を結ぶのです。環境問題などによって、人類の生存の危機が叫ばれているこの時代は、神の国の福音を一人でも多くの人に語ることの出来る良い機会をわたしたちに提供しているのではないでしょうか。