2007年1月21日日曜日

ガラテヤ書1章1~10節「キリストの福音」

第81号

《新年礼拝》 

 ガラテヤの信徒への手紙は、キリスト者の自由の「マグナカルタ」(大憲章)です。主題は「主イエスを信じる信仰によって神に義とされる」という信仰義認です。ローマの信徒への手紙にも言えます。前者はローマの信徒への手紙の概要で、後者はガラテヤ書の解説と言ってもいいでしょう。いずれの書簡も使徒パウロが著者です。パウロは「よい行いで神の前に義とされる」、すなわち「自分の力で神の前を正しく生きる」行為義認、律法主義は信仰義認とは相容れません。「キリストの僕」であることと「律法を遵守」することとは両立しないと言います。
 パウロは「キリストの福音」とは、キリストが「この悪の世からわたしたちを救い出そうとして、御自身をわたしたちの罪のために捧げてくださった」ことだと言います。
 「悪の世」とは、そこに住んでいる人間が悪いという意味です。ある所に盗賊団が住んでいると、人々は「あの場所は悪い」と言います。江戸時代、辻斬りをした人が捕まりますと、人々はその人の刀も人の血を吸ったと嫌いました。「この世」はあくまで「器」にすぎません。「器」である「この世」を良くするのも悪くするのも人です。
 聖書は「人は必ず欺く」と言います(詩一一六:一一)また、「皆ともに、汚れている。善を行う者はいない。ひとりもいない」と記されています(詩一四:三)。わたしたちの生まれつきの心のままでは善を行うことはできないのです。この世から離れ、一人で生活しても神の前に正しく生きることはできません。このようなわたしたちを救うために神は御子キリストをこの世にお遣わしになったとパウロはガラテヤの人々に教えたのです。

 パウロの後からガラテヤにやって来た偽使徒(ユダヤ主義者)たちは、パウロの使徒職を否定しました。パウロは主イエスが選ばれた十二弟子の一人ではなく、生前の主イエスから直接教えを受けた訳でもなかったからです。彼らは、自分たちはエルサレムの教会から遣わされのだと言い、その権威を背景に、パウロの教えは救いには不十分だと主張したのです。十二弟子たちは皆、律法を守って正しく生活していたので、偽使徒たちもまた主イエスを信じるだけでなく、彼らに倣って生活するようにと教えました。
 律法の知識は聖書を学ぶことによって身に付きますが、「キリストの福音」は、主イエスとの出会いが必要です。パウロはダマスコに行く途中、それまで彼が迫害していた主イエスに出会いました(使徒九:三~四)。人の罪を赦すことがおできになるのは神お一人であり、それが十字架の出来事であること、三日目に甦られ、天に上られ、天の父の右に座し、信じる者に約束の聖霊を送られたのを直接主イエスから示されたのです。
 行為義認、律法主義は良い行いでもって神に認められようとします。神の救いを待つのではなく、自分から神に自分の義を主張するのです。しかし、律法で救われようとしても神が定めるその基準には到底到達することはできません。律法は自分の罪を自覚し、神のところにわたしたちを導き、連れて行くための養育係にすぎません。それ自体に救う力はないのです。
 わたしたちは自分の律法による人間的な努力で神を見い出すことができません。むしろ、多くの場合、神と人に対し律法の知識と行為を誇るようになります。ファリサイ派の人たちは「律法を知らないこの群衆は呪われている」と言い(ヨハネ七:四九)。また「神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します」と祈りました(ルカ一八:一一)。

 使徒たちは何故、律法を守っていたのでしょうか。彼らはユダヤ人に遣わされたからでした。パウロは異邦人に遣わされました。彼らはユダヤ人にはユダヤ人のようになり、異邦人には異邦人のようになったのです。使徒たちは自分の良い行いで救われたとは思っていませんでした。
 パウロが偽使徒たちを「呪われるが良い」とまで言うのは、自分たちの主義主張のために十二使徒たちを利用し、主イエスの救いのみならず、律法の行いによる救いを教えたからです。彼らは最悪の敵である「わたし自身」から救われる機会をガラテヤの人々から奪っていたからです。神に対するわずかばかりの良い行いで自らの価値を神と人に認めさせ、自分は救いに価するとするなら「キリストの福音」を歪曲し、神に敵対することになります。
 わたし自身が罪から救われなければならない存在です。そのために主イエスは天の父から遣わされ、十字架の上でわたしたちの罪を贖われました。そして、三日目に復活され、わたしたちの初穂となられました。その恵みだけで充分なのです。

2006年12月17日日曜日

マタイ28章1~15節「あの方は復活された」

第80号

 マグダラのマリアともう一人のマリアは、週の初めの日の朝早く墓に行きました。すると地震が起こり、墓石が取り除かれ、天から降って来た天使から「恐れることはない。…あの方は、ここにはおられない。…復活なされたのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい」と告げられました。彼女たちがこのことを弟子たちに知らせに行く途中、主イエスが現われ「おはよう」と言われました。彼女たちは主イエスの足を抱いてひれ伏しました。ギリシャ哲学では、肉体は滅んでも霊魂は生き続けると教えられています。しかし、復活の出来事はそのようなことではありません。もし、主イエスが霊であるなら足を抱くことは出来ません。主イエスは生きた身体を持って復活されたのです。
 弟子たちは彼女たちから主イエスが復活されたことを聞いたとき誰一人信じませんでした。信じない弟子たちの前に主イエスが現われた時、彼らは主イエスの亡霊が現われたと思いました。それに対し、主イエスは「わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなた方に見えるとおり、わたしにはそれがある」と言われました(ルカ二四:三九)。弟子の一人、トマスはこのことを聞いてもなお信じようとはしませんでした。「あの方の手に、釘の跡を見、この指を針跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」と言い張りました。主イエスはそのトマスの前に立たれて、「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と言われました。
 主イエスはご自身の手足とわき腹の傷を弟子たちにお見せになっただけでなく、彼らと一緒に食事をされました。主イエスが霊であるなら焼いた魚を食べることはできません。復活された主イエスは弟子たちに神の国について教えられました。このようにして主イエスは四〇日にわたって五百人以上の弟子たちにご自身の復活の確かなことを示された後、天に上られたのです(使徒一:三、Ⅰコリ一五:六)。

 ペンテコステの日に聖霊を受けた弟子たちは大胆に主イエスの復活を証し始めました。ペトロは集まって来た人たちに説教しました。「(ダビデは)キリストの復活について前もって知り、『彼は陰府に捨てておかれず、その体は朽ち果てることはない』と語りました。神はこのイエスを復活させられたのです。わたしたちは皆、そのことの証人です」。この日、回心した人は三千人ほどでした(使徒二)。
 パウロも「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、私も受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、…」と言っております(Ⅰコリント一五:三以下)。
 このことは、主イエスが生前、何度も繰り返して弟子たちに教えられたことでした(マタイ一六:二一、他)。

 主イエスの「霊」を見たと弟子たちが証したのであれば信じることができるかもしれません。しかし、主イエスの復活は「生きた身体」を伴うものでした。そのため復活は最も信じられない出来事となりました。しかし、もしギリシャ哲学が教えるように霊魂の不滅を信じるのであれば、今の自分が連続して永遠に生きることになってしまいます。わたしたちのこの罪の性質がそのまま新しい天と新しい地を継ぐことになるのです。そうではなく、わたしたちの霊魂と身体が一度死んで滅ぼされ、そこから再び新しい霊魂と身体が創造されるのです。永遠の命にふさわしい罪のない心と永遠に生きるにふさわしい身体が新しく生まれるのです。この世と永遠との連続性はそこにはありません。
 同じことは主イエスを信じるときわたしたちに起こったことでした。「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者なのである。古いものは過ぎ去った。見よ、すべてが新しくなったのである」。(口語訳・Ⅱコリ五:一七)。回心の時わたしたちの心に主イエスを信じる新しい心が与えられ、身体もまた永遠のいのちにあずかる希望を持つことができるように変えられます。
 七つの悪霊を主イエスによって追い出してもらったマグダラのマリアは、それまで罪の生活をしていたといわれています。そのような生活から贖われたのは主イエスと出会ったからでした。マリアは復活の主イエスに会って「おはよう」すなわち「喜びなさい」と言われました。復活の主イエスに出会うときわたしたちの人生もまた喜びに変えられるのです。「あの方は復活された」と証することができるようになるのです。

2006年11月19日日曜日

ヨハネ18章28~38節「わたしの国」

第79号

〈召天者記念礼拝〉

 今年は一月二二日に石川久夫兄、三月一三日に生原優先生を主の御許に送りました。親、兄弟を天に送った者は主イエスの言われる「わたしの国」を身近に感じることでしょう。しかしながら、わたしたちが御国をどれだけ身近に感じるかは、その国についてどれだけ知っているかによります。誰も、天に上り、そこから戻ってきた者はいません(ヨハネ三:一三)。主イエスだけが神の国から来られ、戻って行かれました(ヨハネ一六:二八)。「わたしの国」を知るためには、わたしたちは聖書を読み、主イエスの御言葉に耳を傾ける以外にはありません。

 わたしがアメリカに行ったのはもう三四年前になります。二八歳でした。デトロイト国際空港に降りましたが、その時までは五大湖周辺は工業地帯なので日本の川崎のようなところだと想像していました。しかし、空港もミシガン大学に向かう道路も周りは林でした。大学のキャンパスは信じられないほど広く、芝生が見渡す限り続いていました。建物や寄宿舎を無料のバスが結んでいました。広大な土地と豊かさに驚かされました。また、言葉に関してはアメリカの生活に慣れるまで、しばらく通じませんでした。そのようなわたしを助けてくれた多くの人がいました。ボランティアの学生が英語を熱心に教えてくれました。四ヵ月後に、ホィートン大学に入学しましたが、そこでも同じでした。三年半のアメリカでの生活で、日本がどのような国であるかを外から見ることができ、自分が日本人であることを自覚することができました。
 「人」は一人では自分が分かりません。同じように神を知って初めて人間が何であるかを知ることができます。神を知ることなくして、人はどこから来てどこに行くのか、何をしなければならないかを知ることはできません。

 主イエスは「『わたしの国』は、この世に属していない」と言われました。この世は神によって創られました。そして、いつか終わりを迎えますが、神はわたしたちのために新しい天と地を用意されているのです。それは全く新しいものであって、この世とは別のものです。
 「わたしの国」である天の国は、新しいエルサレムとも呼ばれ、縦、横、高さが同じで、一万二千スタジオン(二千二百キロ)の大きな都です(黙二一)。日本と中国の北京が入る大きさですが、十二はユダヤでは完全数ですのでただ都が広大であることを意味しているだけかもしれません。この天の国には終わりはなく、永遠に続きます。太陽や月はなく、神ご自身が都を照らします。都の中心に川が流れていて、その両岸には命の木があり、その実は毎月実って、葉は民をいやします。きっと人々に聖霊が豊かに注がれていることを意味しているのでしょう。温度は一定で熱くも寒くもないでしょう。わたしたちは復活してその都に永遠に住みます。身体は永遠に生き、死も、病も、苦しみ、悲しみ、痛みもありません。心も新しく創造され、罪のない清い心となっています。戦争や争い、怒鳴りあうことも、いじめもありません。事故や、地震、津波、台風、竜巻といった自然災害もありません。全ての人の語る言葉を理解し、国籍や人種の違いもありません。そこには霊的な成長があり、喜びが満ち溢れています。
 この世のものを引き継がない全く新しい更新を、この世のものを借りて説明することはおおよそ不可能なことです。主イエスは「わたしの国」は素晴らしい国であることを、わたしたちに伝えようとされているのです。

 「わたしの国」にはどのような人が入れるのでしょうか。主イエスの言葉を信じる人が入れるのです。主イエスは「わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た」と言われました(ヨハネ一八:三七)。ピラトは主イエスに「真理とは何か」と尋ねましたが、それは主イエスが証しする「わたしの国」に他なりません。この世は移り行き、滅びますが、主イエスの言葉は真理なのです。祭司長たちや律法学者たちは「これはヨセフの息子のイエスではないか。我々はその父も母も知っている。どうして今、『わたしは天から降って来た』などと言うのか」、と言いました(ヨハネ六:四二)。主イエスの言葉を信じない人たちは「わたしの国」に入ることは出来ないでしょう。神ご自身を偽りものとするからです。
 「わたしの国」を知ることは、「この世」を知ることであって、それによりこの世での生き方は変わります。この世だけではないことを知るからです。
 召天者の存在は「わたしの国」が確かなことの証拠です(ヘブライ一二:一)。彼らはその国を信じて死んでいったからです。わたしたちもまた彼らに続き、御国を仰ぎ見ながらこの世を歩もうではありませんか。

2006年10月15日日曜日

マタイ26章57~68節「お前はメシアなのか」

第78号

主イエスは大祭司カヤファのところに連れて来られ、そこからサンヘドリンとよばれる最高法院に引き出されました。既に律法学者や長老からなる議員たちは集まっていました。最高法院は大祭司を議長とする七一人の構成でしたが、裁判は二三人の定員数だったと言われます。
 ユダヤ人指導者たちは以前から主イエスを殺そうとしていました(一二:一四)。多くの人たちがファリサイ派の人たちや律法学者たちの教えから離れ、主イエスに従うようになったためです。民の心をつかんでいる主イエスへのねたみと、自分たちの教えがないがしろにされた怒り、民の指導者としての地位を失う恐れ、それによる社会的、政治的混乱とローマ軍の介入を危惧したからです(マタイ二七:一八、ヨハネ一一:四五~五四)。彼らはユダの裏切りによって「真夜中」、「武装した群衆」により主イエスを連行しましたが、昼間は群衆を恐れ捕まえることはできませんでした(二六:五、一四~一六、ルカ一九:四七~四八)。夜、主イエスが弟子たちと集まりローマに陰謀を企てていたとの疑惑の演出をも、もくろんでもいたのでしょう。裁判は最初から死刑判決を目的としたものでした。

 裁判が始まると、証人たちの証言はいずれも不完全なものであることが分りました。最後に一番有力な起訴事由が提出されましたが、それは主イエスが「神の神殿を打ち倒し、三日あれば建てることができる」というものでした。主イエスは「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる」と言われましたが、自分が壊すと言ったのではなく、また、「イエスの言われる神殿とは、御自分の身体のことだった」のです(ヨハネ二:一九~二二)。この最後の二人の証言も証拠とはなりませんでした。
 死刑宣言を下すのが難しい状況の中で、大祭司は主イエスに「何も答えないのか、この者たちがお前に不利な証言をしているが、どうなのか」と言い「生ける神に誓って我々に答えよ。お前は生ける神の子、メシアか」と尋ねました。
 主イエスは「それは、あなたが言ったことです。しかし、わたしは言っておく。あなたたちはやがて、人の子が全能の神の右に座り、天の雲に乗って来るのを見る」と言われました。
 主イエスが黙り続けていたなら、彼らは死刑を宣告できなかったでしょう。主イエスもこのように答えることによって死刑が宣告されるのを知っていました。何故、答えられたのでしょうか。それはこの問いの持つ本質的な事柄を無視することができなかったからです。
 主イエスは、かつてフィリポ・カイザリアからの帰途、弟子たちに「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と尋ねたことがありました。ペトロは「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えました。すると主イエスは「…あなたはペトロ、わたしはこの岩(ペトロの告白)の上にわたしの教会を建てる。…」と言われました(一六:一三~二〇)。
 主イエスが「わたしは神の子、メシアである」と宣言されるなら、わたしたちはその御前にひざまずき、礼拝しなければなりません。しかし、大祭司も法廷にいた人たちも誰一人として主イエスが生ける神の子、メシアとは信じていませんでした。大祭司は「服を引き裂きながら…(この男は)『神を冒涜した。これでもまだ証人が必要だろうか。諸君は今、冒涜の言葉を聞いた。どう思うか』」と言い、人々もまた「『死刑にすべきだ』と答えた」のです。
 主イエスの答えは、わたしたちに主イエスが神の子、メシアであるかどうか信仰の表明を促がすものでした。無視することも、中立の立場を取ることもできません。もし、主イエスが神の子、メシアであることを否定するなら、今度は再臨の主イエスに裁かれることになるのです。

 主イエスはご自身が神の子、メシアであることを示すため、力を顕示されることはありませんでした(二六:五三)。無力な者となって人に裁かれる道を選ばれました。それが人々の罪を贖う唯一の道であることを知っておられたからです。人々は「イエスの顔に唾を吐きかけ、こぶしで殴り、ある者は平手で打ち」ました。
 「弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げて」しまいました(二六:五六)。一番弟子のペトロですら主イエスから「遠く離れて」安全な場所で事の成り行きを見守っていたのです。
 自分の力で主イエスに従うことはできません。しかし、御自分のために力を用いなかった主イエスに神の力を見い出す時、わたしたちは救われます。自分の罪を認め、悔い改め、聖霊を与えられることによってはじめて主イエスに似た者に変えられていくのですが、すべては主イエスの導きの内にあるのです。

2006年9月17日日曜日

マタイ26章1~16節「香油を注ぎかけた」

第77号

主イエスがベタニアで重い皮膚病の人マタイの家で食事を取られていると、一人の女が高価なナルドの香油の入った壺を砕いて主イエスの頭に注ぎかけました。その香油の価値は三百デナリオン以上と言いますから、おおよそ労働者一年分の賃金に当たります(マルコ一四:五)。それを見た弟子たちは憤慨して「なぜこんな無駄遣いをするのか。高く売って貧しい人に施すことができたのに」と言いました。過越祭では貧しい人に施しをしたのです。弟子たちは主イエスも同じ考えで、この女をとがめると思ったことでしょう。しかし、主イエスは「なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ」と言われました。
 わたしたちもこの弟子たちと同じように考えるのではないでしょうか。主イエスが二日後に十字架につけられるのを知っていたなら話は別ですが、こんなに高価な香油を主イエスに注ぎかけるのは余りにも、もったいないからです。しかし、そのことを知っていたのは主イエスだけでした。

 わたしたちには神の思いは分かりません。神の思いとは別の、自分の考えを持っているからです。哲学者デカルトは「我考う故に我在り」と言いました。デカルトは考える自分の存在はどうしても疑いえない。従って他人や外界とは独立に自分が存在している、と結論づけました。わたしたち人間だけが物事を客観的に見ることが出来るのです。
 アインシュタイン以前、人々はニュートンの考えに従って、宇宙は星を入れる無限の器であり、時間もまたそれから独立して初めも終わりもない存在だと考えられていました。今、わたしたちはアインシュタインの相対論によって、宇宙と時間は無から生まれたことが分かるようになりました。しかしこの事実は聖書が数千年前から教えていたことなのです。
 無から創られた被造物にすぎない人間は神について知ることはできません。主イエスを知ることによって初めて神がどのようなお方であるかが分かるのです。神に「仕える」ということの意味もまた、わたしたちの考えでは理解できません。このことについてもわたしたちは聖書から学ばなければならないのです。
 エズラ記には七十年間バビロンで捕囚だったイスラエルの民の帰還について書かれています。八章にはエズラが四~五千人の人たちを率いて金銀など時価数億円を携えエルサレムに上ったことが記されています。これらの金銀はペルシャの王アルタクセルクセスと高官たちから、そしてイスラエルの民で帰還できない者たちからの神殿への献げものでした。バビロンからの帰還は第二の出エジプトです。モーセに率いられたイスラエルの民はエジプト人からの分捕りものとしての金銀を携え、荒野に出て行き、約束の地を目指しました。それらの金銀などは幕屋の建設に使われたのです。
 主イエスの頭に香油を注ぎかけた女も同じです。自分の持っている物の中で最も大切な香油を主イエスに献げたのです。この女はかつて罪の「奴隷」だったのかもしれません。主イエスによって罪が赦され「自由」の身にされたに違いありません。「香油を注ぎかけた」のは主イエスへの愛と感謝のしるしだったのでしょう。それに対して弟子たちは「なぜこのような無駄遣いを」と言い、わたしたちもまた「高く売って貧しい人に施すことが出来たのに」と思います。しかし、主イエスはわたしたちが何をするかより、何故そうするかに関心を持つておられます。この女の人にとって「香油を注ぎかけた」ことは自分の命を主イエスに注ぎかけたことに他ならなかったのです。
 この女のしたことは結果的に主イエスの埋葬の準備となりました。また、油を注ぐことはイスラエルでは王となる儀式でもありました。主イエスは死んで復活され、メシアとしてわたしたちを支配されるのです。

 「仕える」は「栄光を帰する」ことです。ウエストミンスター信仰基準、第四章「創造について」の一には、神はご自分の永遠の力、知恵、栄光のためにすべてのものを無から創られた、とあります。この宇宙を、そして人を創られたのは、ご自身の栄光の現われるためであり、わたしたちが神に栄光を帰するためなのです。「主の祈り」に「み名をあがめさせたまえ」とあるとおりです。
 この女は「香油を注ぐ」ことによって主イエスに栄光を帰し、主イエスはそのことを喜ばれました。罪を赦され永遠の命を約束されたわたしたちもまた、自分の最も大切なものを主イエスに捧げることによって主に栄光を帰することが求められているのではないでしょうか。わたしたちにとって最も大切なものは何でしょうか。それは「いのち」に他なりません。わたしちのいのちでもって主イエスに仕えることが求められているのです。

2006年8月20日日曜日

マタイ24章1~35節「天地は滅びる」

第76号

マタイによる福音書二四章は小黙示録と呼ばれています。「黙示」とは黙していることが示されることであって「終末に関すること」です。聖書によればこの世の終わりは神によって決定されています。「この世」を創られた神が「この世」に終わりを来たらせるのです。
 旧約聖書の「ノアの洪水」の物語には、神が古い世界を滅ぼされたのは「地が暴虐に満ちていたから」とあります(創世記六章)。神がソドムとゴモラの町を滅ぼされたのも同じ理由でした(創世記一八~一九章)。
 預言者サムエルは、隣国からの脅威に対抗するため王制を求めた民にこのように警告しました。「あなたたちの上に君臨する王の権能は次のとおりである。まず、あなたたちの息子を徴用する。それは、戦車兵や騎兵にして王の戦車の前を走らせ…」る(サムエル記上八章一〇~一八節)。
 王国はソロモン王の後、北王国と南王国に分裂しました。多くの王は神に代わって自ら国の主権者となり、神に罪を犯しました。神は北王国イスラエルをアッシリアに、南王国ユダをバビロニアに渡して滅ぼされました。「神が民を滅ぼされたのは民の罪の故」でした(列王記下一七、二四章)。
 主イエスは紀元七〇年のエルサレムの滅亡と神殿の崩壊について預言し、「神の訪れてくださる時をわきまえなかった」彼らの罪の故であると言われました(ルカ一九:四四)。
 神がこの天地を滅ぼすのはわたしたちの罪の故で、そのことが終末に起こることであるなら、わたしたちの平和への努力には一体どんな意味があるのでしょうか。将来、良い世界が訪れることを願って、わたしたちは平和のために努力するのではないでしょうか。

  この世の悪の勢力と戦うためには武力の行使もやむ終えないとする相対的平和主義の立場を取る人が多くいます。二〇〇一年、ニューヨークの貿易センタービル崩壊で、ブッシュ大統領はテロとの戦いを戦争と呼びました。今日、アメリカでは福音派(エバンジェリカル)、原理主義者(ファンダメンタリスト)のキリスト教が力を得、ブッシュ政権を支えていますが、自国を神の側につけ、敵対するものを悪としています。このような聖書理解はアメリカの国益にも沿うものでしょう。同盟国イスラエルへの徹底的な支援も聖書の言う「神の国」を来たらせる道と信じているようです。
 アメリカの多くの人たちは自分たちの豊かさは神の祝福と信じ、神に感謝していますが、世界の貧しい国々の実情についてはほとんど知らないようです。イラク戦争は核疑惑とサダム・フセインの圧政から国民を救うためというものでしたが、実際にはそれは介入のための大義名分だったと思われています。アメリカはこれら貧しい国の資源を搾取して自らの豊かさを享受しています。世界は豊かな国と貧しい国、善と悪とに分けられていることが、様々な対立やテロの原因となっているのではないでしょうか。

  日本は戦前、政治家と軍部は天皇を神として、隣国に利権を求め、武力により満州国を建設し、朝鮮や台湾を植民地にしました。
 一九三七年、内村鑑三の門下生、矢内原忠雄は中央公論に『国家と理想』と題して「正義と平和こそ国家の理想、これを失った国家と民族は滅びる」と書きました。そして同じ年、藤井武記念講演会で、「我々のかくも愛した日本の国の理想、或は理想を失った日本の葬りの席であります。…若しわたしの申したことが御解りになったならば、日本の理想を生かすために、ひと先づ此の国を葬って下さい」と述べ、東京帝国大学教授の地位を追われました。
 その八年後、一九四五年八月六日、原爆が広島に、九日には長崎にも投下され、十五日、日本は遂にポツダム宣言を受諾し、無条件降伏をしました。中国東北戦争から太平洋戦争の十五年に渡る長い戦争により、三百万以上の人が死にました。広島と長崎は一瞬にして壊滅し、二十四万人と十二万二千人が亡くなりました。中国人、一千万人以上、他のアジアの国々の人々、一千万人以上が犠牲となりました。
 わたしは絶対的平和主義の立場に立ちます。このことは隣国から侵略されないことを保証するものではありません。平和の戦いは忍耐と苦難、そして多くの命の犠牲を伴うものです。
 主イエスは「神と人との和解」のためにご自身の命を捧げられました。それによってわたしたちは御国の住民とされました。それ故わたしたちも「人と人との和解」のために命を捧げることが求められていると思います。このようなわたしたちにとって、敗戦によって与えられた日本の平和憲法には特別な意味があると信じます。
 「天地は滅びる」、それは平和のための努力が無に帰するのではなく、神の子たちに新しい天と新しい地が用意されているということです。

2006年4月16日日曜日

マタイ28章1~10節「あの方は復活された」

第72号

〈イースター礼拝〉

 「あの方は復活された」、これは聖書が伝える最も大切な出来事です。主イエスの復活の事実があったからこそ、わたしたちの復活も確かであると信じることが出来るからです。聖書によれば死は決して自然なことではありませんでした。「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった」のです(創世記一:三一)。そこには、死はありませんでした。しかし、最初の人であるアダムとエバは「決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう」と神が言われた善悪を知る木の果実を食べたのです(二:一七、三:六)。神の言葉に背くことが罪で、罪の結果は死です。御言葉どおりアダムとエバは死ぬ者となりました。彼らの罪によって全ての人は神の栄光を受けられなくなったのです。この世は滅びに向かい、全ての生き物もまた死ぬようになりました。その後、罪の世界を救うために救い主が与えられるという神のご計画は、アダムとエバに伝えられました(三:一五)。そのお言葉どおり、長い年月を経て主イエスは世の罪を取り除くお方としてお生まれになりました(ヨハネ一:二九)。

 主イエスは神が人となられたお方です。人間の母マリアから生まれたが故に、人の心を持ち、人の弱さを知り、罪の誘惑をお受けになられました。しかし、神の子であるが故に少しの罪も犯されませんでした。罪の結果が死であるなら、罪のない主イエスは死ぬことのない存在でもありました。しかし、主イエスはわたしたちの罪を負って十字架につかれ、罪の裁きをお受けになったのです。「わが神わが神、何故わたしをお見捨てになったのですか」という十字架上の叫びは、それがどれほどの苦しみであり、悲しみであったか、わたしたちには想像もつきません(マタイ二七:四六)。神はその独り子をわたしたちの身代わりにされましたが、そこにわたしたちの神に背く罪の深さとわたしたちへの神の愛があります(ヨハネ三:一六)。しかし、死は罪のない主イエスを墓に閉じ込めておくことはできませんでした。三日目に復活して死に打ち勝たれたのです。
 アダムとエバの子孫であるわたしたちは彼らの罪を引き継ぎ、神に背いて生きています。それ故、例外なくわたしたちは死ななければなりません。しかし、復活された主イエスは今も生きて天の父の右に座しておられ、また、霊となってわたしたちの心に宿られるのです(Ⅰコリント一五:四五)。これがペンテコステの時に弟子たちに起こったことでした(使徒二:一~四)。主イエスは生前の約束を今も果たされているのです。それは、わたしはあなたがたをみなしごにはしない。あなた方のところに再び戻って来ると言われていたことでした(ヨハネ一四:一五~三一)。
 律法学者ニコデモは、神の戒めを犯した者は生きることはできない、「もう一度母親の胎内に入って生まれることができるのでしょうか」と言いました。それに対して主イエスは人は霊によって新たに生きることができると言います(ヨハネ三:一~一五)。人は主イエスの霊を心に受けることによってその心は神に反逆している死から神に従順に生きようとする命に変えられるのです。それは主イエスの十字架によって罪なき者とされた恵みによるもので、この世でも、また死んでも復活にあずかることが出来るようにされます。
 わたしたちは回心を経験し、主イエスの霊を心に受けるなら死後の復活を信じることができるようになります。回心も復活も「死」を経験するということで共通しています。

 パウロはわたしたちは死んで眠り続けるのではなく、主イエスの再臨のとき、ラッパの音と共に復活し、今とは異なる状態に変えられる、と言います(Ⅰコリント一五:五二)。そして、わたしたちは、わたしたちのために用意された新しい天と地の住民となるのです(黙示録二〇:一一~二一:八)。
 わたしたちが復活するとき、この体は朽ちるものから朽ちない天的な体に変えられます。卵からひよこが孵るように、種から芽が出るように、そしてさなぎから蝶が生まれるようにです。体だけでなくわたしたちの心も変えられます。この地上にいる間はわたしたちの心には生まれながらの罪があり、その罪と神の霊との間に戦いがあります(ロマ七:一五~二五)。しかし、復活したわたしたちの心には少しの罪もないのです。心と体は新しい天と地で永遠に生きるにふさわしく新しい被造物に変えられるのです。
 「あの方は復活された」。それは死んで霊となられた主イエスが、再びわたしたちの心に宿られることによってわたしたちを永遠の命にふさわしい者とされることに他なりません。それはわたしたちがこの世でも自分ではなく、主イエスによって新しく生きることが出来るようになるためでした。